明治26(1893)年7月、27歳の洋画家黒田清輝は9年にわたるフランス留学を終えて帰国した。法律家を志して渡仏しながら、絵に興味を抱くようになり、文化の重要性や自らの資質の認識から画家へ志望を転向。外光派のサロン画家ラファエル・コランに師事し、アカデミックな絵画教育を受けて明治24年「読書」でサロンに入選。
黒田を迎えて、日本の洋画界は大きな変化を遂げていくこととなる。それまでは明治9年開校の工部美術学校でイタリア人画家フォンタネージが指導したバルビゾン派風の作品が主流をなしていた。そこへ黒田は、変化する光と大気の微妙な様を描き分ける、明るい色調の外光派風の作品をもたらした。この画風は新派、紫派と称され、たちまち人々の心をとらえていった。また、黒田は西洋美術の伝統に基づいて、人体を描くことを重視し、裸体デッサンを絵画制作の基礎として定着させていく。当時は裸体画を公に展示するのは道徳上好ましくないとされたものの、明治29年東京美術学校に新設された西洋画科の指導を託されると、解剖学と実際の裸体モデルを使った人体デッサンを教育課程に組み入れたのである。
黒田が人体研究を重視したのは、「構想画」を絵画の最高位に位置づけていたからである。西洋では、ポーズ等によって特定の意味や概念を象徴する人物像を組み合わせて、神話や歴史、あるいは愛や勇気などの主題を表す絵画が最も格が高いとされていた。黒田もその価値観に従い、帰国後まもなく、主題やモチーフを日本に求めた構想画として「昔語り」「智・感・情」等を試みている。明治31年東京美術学校西洋画科教授就任ののち、同40年開設の文展のために尽力、同43年帝室技芸員、大正2年国民美術協会会頭、同9年貴族院議員となって、社会的に多忙を極めるようになったからである。後半生は、美術教育者、美術行政官としての活動が中心となった。
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