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解説4:文展・帝展時代 | 目次 |
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| 明治40(1907)年、日本初の官立展である文部省美術展覧会(文展)が開設される。フランスのサロンを手本とした同展の発足に際し、黒田清輝は建白書を文部省に提出、審査員の選考に当たるなど大きく関与した。開設後も審査員を歴任し、大正8(1919)年文部大臣の管理下に帝国美術院が創設されると会員に任命、同11(1922)年には院長となり美術行政家としての役割を担うことになる。その他にも洋画家として初めての帝室技芸院を復命(明治43(1910)年)し、大正9(1920)年には貴族院議員になるなど、その後半生はもっぱら公人として多忙な日々を送っている。 そうした状況を反映してか、この時期の作には小品、しかも《鎌倉にて》(大正5(1916)年作)、《温室花壇》(大正7(1918)年作)のような、自邸の庭や別荘近辺といった身近な眺めを写したものが多い。寸暇を惜しむかのように制作されたそれらの諸作には、かえって黒田の感興がすなおに表現されているようだ。 この時期、雑誌のなかで黒田は次のように語っている。 「私の欲を言へば、一体にもう少し、スケツチの域を脱して、画といふものになる様に進みたいと思ふ。(中略)今の処ではスケツチだから、心持が現はれて居るが、スケツチでない画にも、心持を充分に現し得る程度に進みたい。」(『美術』1巻1号) 黒田はけっしてスケッチのような臨場感あふれる画を否定しているのではない。モティーフを前にわきあがる“心持”を大事にしていたことは、この時期の作品が雄弁に物語っている。 しかしながらその一方で、留学先のパリで受けたアカデミックな教育の記憶は、ときとして黒田をより入念な絵づくりに向かわせようとしたらしい。《其日のはて》(大正3(1914)年作、焼失)の下絵類(nos85、86)は、かつての《昔語り》のような「スケツチの域を脱し」た丹念な制作過程をうかがわせる。 西洋アカでミスムに裏付けられた構築的な画作、あるいは自らの感興にゆだねた描写という振幅は、おおむね黒田の画業を通じてみられるところであった。多忙の果てに、こうした揺らぎを克服できなかったもどかしさを孕んだかのような《梅林》を残して、大正13(1924)年7月、黒田は58歳の生涯を閉じることになる。 |
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