黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎美術界縦横

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 文展(第十二回)出品の洋画に就いて、昨年と今年との差点を挙げて見ると、一は構図上に骨折つて来た傾向が見えるのと、今一つは絵の仕上の上に余程巧妙になつて来た。でその反対を言ふと、即興的な軽いスケツチに類する絵が減つて来たと言ふことが出来る。
 鑑査及び審査の方針に就ては、昨年も今年も敢て異つたところはない。即ち不偏不党であつて、能ふだけ、作家の主張を基礎にして判断を下すと言ふ方針である。であるから、陳列した絵に就いては、私設の小さい或る主張を持つてゐる小展覧会とは自ら趣が異つてゐる。主義主張を持つてやつてゐる方の眼から見ると、文展の審査員は、如何にも無見識の如うである。然し斯やうにしてはじめて、公設展覧会としての意義に最も適合するであらうと思ふ。  陳列場に就いて言へば、昨年迄は常に会場の出口の方に第二部を設けられてゐたのであるが、今年は之を変更して中央部に陳列することになつたことである。是れ洋画部にとつては寔に幸なことであつて、例へば洋画専攻の人ならば、入口から直ちに彫刻室を通つて洋画部に入ることも出来るし、また通覧する人にしても、酷く眼の疲れないうちに洋画を見ることが出来る。また一方から言ふと、洋画室が日本画室の中間に挟まれた為に、観覧人の方でも眼さきが変つて却つて、観るのに都合よくはなからうかと察しられる。
 第二部は比較的陳列面積が少ない。そこで面積に制限されたために、入選し得べき資格の絵も落選になつたと言ふ様に誤解する人もあると言ふ事を聞いてゐるが、これは非常な間違ひである。鑑査する時に当つては決して陳列面積に就いては顧慮しないのである。絵の出来ばえによつて鑑査すると言ふことは昨年も今年も同様であつて、場所が足らぬからと言つて、選に入れ度いものも遺憾ながら落すと言ふやうなことはこれまで決してないことである。私は敢て之を確言する。
 這回審査委員総会に於て決議の結果、次回の展覧会には取扱上に多少の改革が行はれる筈であるが、その主なる点は、特選された作家を優遇するといふ意味で現在の規則では前三回引続き特選を受けた人でないと無鑑査出品の資格が無かつたのを、次回からは前回に於て特選(一回)を受けたものは直ちに、その次の展覧会には無鑑査出品が出来ると言ふので、また今一つは出品者優待の意味で、落選者であつても、その前二回に引続き及第してゐる人には、特に入場券を与へると言ふのである。
 国立の美術館又は陳列館建設を希望すると言ふ事を主務大臣に提出する決議をしたのも、新聞に見えた通り事実である。此の問題は久しい間の懸案であつて、既に方々で論議されてゐたのである。殊に国民美術協会等に於ては、早く数年前に具体的の案まで出来てゐたのであるが、其の当時の事情はつひに、此の案を実行すると言ふまでの運びに至らなかつたのであつた。然るに近頃、国運の発展と共に、瀕りに此の美術館に関する事が美術界の問題となつて来たのである。幸に時機が到つて、いよいよ実行されると言ふことになれば、寔に国家の慶事であらうと思ふ。
 近頃、少壮画家中には徒らに理論ばかりに拘泥せず、力めて実地に腕を磨くと言ふやうな傾向がある。之はやはり所謂、国運の発展に伴つた自然の勢ひで、実地に絵画を応用する機会が次第に増して来たのにも拠る。例へば新建築をする人が多くなつた為に絵の需要が増えて来る。又彼の聖徳記念絵画館問題等も起つて、十分作家が腕を磨かねば到底、立派な製作は出来ないといふ様な次第で、今や実に実際問題に逢著してゐるのである。で今年の文展にスケツチ風の絵が減つたのも、言はゞ此の事を証拠立てる現象とも見られる。
 凡べて、洋画界の気分が少し広く、ゆつくりして来た。これは従来非常に所謂、昔からの弊害であるところの職敵と言ふやうなものがあつて、同じ画家同士であり乍ら、互に嫉妬心が多く、友人関係にしても、外国の美術家の交際に比較して見ると、何となく打解けないところが多い。小さな団体--何会々々、例へば白馬会とか太平洋画会と言つたやうな、同じく洋画の研究に携つてゐるのだから、互に面白く交際をして行けるべき筈なのに、殊更に小党分派を樹てゝ相争つてゐたのが、近頃斯かる争ひが無くなつた。最近の一例を挙げて見ると、此のごろ出来た天地会の如きは最も此の意味に叶つたもので、各流派とでも言はうか、各々主張を異にしてゐる画家が相集つて、互に、非常に円満な交際をする様になつて来た。斯やうにしてこそはじめて、画家らしい生活も出来るし、従つて技術の研究上にも尠からぬ好い影響を齎すであらうと思ふ。(談)
(「美術旬報」174  大正7年10月29日)
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