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◎文展出品者は目的を誤つてゐる

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 文展に就て毎年起る入選落選は多くの芸術家にとつて大事な問題である。
 人の情として入選者はこの上もなく悦び、同時に落選者はこの上もなく落胆する、至極尤のやうな事の芸術家として考へる時はその悦びの方は尤であるが決して失望落胆の淵に沈む可き筈のものでは無からうと思ふ。もともと吾々芸術家が展覧会に出品するのは、多くの他の作品と共に比較研究して自分の足らざる所を補ふといふ事が主な目的であつて、たとへ出品が許されなかつたとした所が直接この比較研究の機会を逸したといふ怨丈に止るのみである。然るに多くの落選失望者はその点については更に考慮する事なく、巾がきかぬとか、如何にも不甲斐なき感に打たるゝ傾がある。
 誰しも自負心を持たぬものはない、自分の作品を左程悪作とも未熟とも思はぬだらう、従つて落選すれば只自分が凹まされたといふ気になり加ふるに生来の自負心から、反省心を忘れて、結局審査員等の不明に帰せしむるより詮方のない事となるのであるが、これは学生にとつて尠からず遺憾な次第である。審査員の不明を称ふるも一面に於て尤もな解釈である、審査員必ずしも聡明ならず、乍併平たく考へて見るにその解釈は結局理窟の上からで、実際に於ては自負心も自重心も程度問題である審査員の不明といふ難も個人々々については或は称へ得るかも知れぬが、兎も角多数の審査員が集つて真に公平な比較研究の上にて判断するのであるから、先づ相当に公平な判断の下されたものと見なければならない。
 どんな事柄に対しても多人数によつて評議さるゝ事は、公平になる代りに平凡に流れる。一面からいふとこの平凡といふ事が多少の欠陥を生ずる、故に多数の作品に対して行はれる文展の鑑査審査も如何なる聡明な人達の集まりであらうとも矢張平凡といふ事から免るゝ事は不可能であらう。
 そこで私は特に出品者中の学生達即ち吾々が指導して行く側の出品者に向つて一言述べておきたいのは、文展入選落選に対する総ての理窟らしい評論に頓着する事なく、若し不幸にして落選の運に会ひ、自作をして他の作品と共に比較研究の機会を失したならばせめては陳列せられたる他の作品のみについて充分に研究を遂げ自己の足らざる点を補ひ他日の助けとなすがよからう。
 一体文展出品といふ事について私の周囲の多くの状態を見るに、大抵は出品を目的として製作してゐる、之れは製作の目的を誤つてゐるのではないか、製作の目的が文展出品にあるとは如何にも不可解である理想的に云へば製作は期日を定めてやつてゆけるものではない、吾々画家は一生引続いて製作してゐるのだ、適当な作品が出来たら展覧会にも出品して比較研究をして見るのもいゝ、只出品と云ふことのみを考へつゝ製作するのは愚の至である、製作の目的は文展及第に標準を於かる可き筈のものではないのである。それによつては画の品格も製作の度合も、その向上進歩はある程度に止るの弊害がある。斯の如き事を殊更今日述べるのは可笑しいやうではあるが出品画の大多数が単に文展出品を目的とせるかの観を呈し、又事実上私の周囲に於てその目的によつて頻りに製作してゐるのを見出すのであるから、頗る平凡な事なれど特に注意する所以である。
 自負心は勿論必要な分子である、如何なる事業も自負心なしには成就なし得ないと思ふ、併し今云ふ所の自負心は自惚と解釈す可きものではない、そこで作の上にも充分自負心を満足さす丈の意匠技術を尽して錬る丈錬らなければならない、斯様にして製作すれば文展及第等といふ標準は自然と消滅する。自負心を古今の名作を作る確信におき、作の標準は無限の高所に保つならば、実際に於て非常なる名作迄とはゆかずとも大に見る可きものが出来、従て入選の栄位は自ら願はずとも容易に与へらるゝものと信ずる。
 約言すれば、文展出品は極めて結構である、出品の為に製作するのは一寸間違つたやり方で可笑しいが一面から見れば、一種の奮発心を引き起す、為にはなるから製作の動機と見て置けば、差支はない只無邪気に熱心に自己を欺かざる製作をするやうに心懸けたいものである。
 即ち文展出品の考の順序を逆にして、文展に出す画を製作するのでなく、製作した画を文展に出品するやうにすれば先づ大丈夫だと思ふ。
(「みづゑ」153  大正6年11月)
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