黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎岩村透君を悼む

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 岩村君の訃に接して、此場合に頭に一番先に来る事は、岩村君の逸事とか、事業とか云ふ事でなく、只自分と岩村君との間の交に就ての感覚と云ふ事が一番先に来る。それはどう云ふ感じであるかと云ふと、昨年旧師を亡つた際、旧師の葬儀に際してフラマンと云ふ人が弔辞を述べられまして、其報告を見ましたが、それは矢張りアカデミーの会員で、旧師の友人であり且同僚である此人の云はれた事が、直ぐに今度の岩村君との事に的中する様に思はれる。これが友人間の交の事を森に譬へ、吾々が若い間森の木の様に枝を交へ、腕を組合して成長して行つて、どんな荒い風をも防ぎ合つて抵抗する、然るに一朝樵夫が来て其木の中で最もよく成長した大きなものから伐倒して行つて、中の弱いものが残つて行く、こうなつて見ればもう寒い風も骨を透して、到底嵐などに抵抗すべくもない、そしていつ吾々の番が来る様になるかと感じられた。と--此譬が実に、今日の私の感情を其侭云ひ現した様なものだと思はれる。
 自分は青年の頃は左程近しくも致しません。まあ岩村君と懇意と云ふ様になつたのは、明治二十三四年の頃からの事と思ふ。そして其頃はお互ひに留学時代であり、帰朝後今日に到る迄、美術界の事に於て始終腕を組み合ひ、そして外の寒い風や、劇しい風に当たると云ふ様な事でありました。で岩村君は始めは画なども描いて居られたけれども、帰朝後は画は描かれず、専ら批評家を以て任じて居られ、吾々は今日迄どんなに岩村君に指導されたか判らない、実に惜むべき天禀の批評家であつた。そして其天禀に加へて非常に勉強家であり、年齢も、経歴も、是から仕事の出来ると云ふ時に歿しられたのは、我美術界に取つては非常な損失だと思ふ。
 誰しも人には、裏表と云ふものがあるものであるが、岩村君はそれが最もはげしくあつた人で、表は多くの人が知つてる通り、滑稽洒脱と云ひませうか、実に話の面白い人であつて、人を笑はせると云ふ事を努めて居りはすまいかと思はれる位で、一寸旅行するにしてもお互ひの間だけの話だけでなく、汽車中の人に話すと云ふ様子であり、それから真面目な側、裏面と云ひませうか本心の事に就ては、物事を人よりも熱心に考へる事で、そして其考へ即ち思ひ付と云ふ様なものが、決して奇抜な事でなく、最も適切な有益な事を思ひ付いて居られた。其思ひ付はいろいろありました。で自分も其等の事に就ては相談をうけ、意見を闘はした事も度々あります。併し何時も理想が多く時代を少し乗り超えて居ますので、遺憾乍ら実行を見ないで了つた事が沢山ある。岩村君の理想は一つも行はれなかつたと云つても宜い位で、先づ近い例を云ひますと、国民美術協会と云ふものを組織するに当つて非常に尽力された、而已ならず此会は全く同君の発起にかゝるもので、其趣意とされた所はどう云ふものであるかと云ふと、日本の美術に対する制度、其他美術教育或は奨励の機関とするもの、そう云ふ場所もなければ機関もない、そして美術家が絵画、彫刻、建築皆な仲間割れの喧嘩ばかりして居て、日本の真の美術と云ふ事を考へない。こう云ふ事ではいけないから、美術家の大同団結と云ふ事を企て、日本の美術界の為に相談又は意見を発表する機関を拵らへ、そうして日本の美術の発展を計ると云ふのであれ程の会が出来ましたが、これは岩村君の理想の影法師位のもので、申さば岩村君の理想の一部、而も其一部が非常に幼稚な姿で残されたと云ふ位の事で、私も現に会員の一人で、岩村君の為に動されて如何にも此様な会が必要であり、又吾々が其会員となつて前の様な趣旨の為に働くべきものであると感じて居るのであります。で其会で云ふ事をこうして一般の人に美術思想を普及すると云ふ様な細かい処に迄注意して居られた。尚美術館建設と云ふ様な事とか、又美術の教育制度に就ての意見とか、美術界に関する総てに就て、非常に高遠な意見を持つて居られた人で、そして其等の事のうち僅に一つの会が実現された位で、其他の事は殆ど行はれて居ない誠にこれからこそ働かなくてはならぬ、又働き得る境遇でもあり年齢であつた。
 前に申した通りに、我美術界の大なる損失と云ふ許りでなく、吾々友人に取つては、吾々の中の一番高い処の、一番丈夫な必要な木が倒れたのである。でこの一番大切な丈夫な木と云ふ事は、吾吾の作品を品隲し、指導すると云ふ友人は此人ばかりであると云つて宜い。それで吾々の森は此強木を失つて誠に淋しい木立となつた。これから此美術界を吹荒す風が、吾々をどう云ふ風に吹廻し吹き倒すか、非常に頼りなく心淋しく思ふのである。
 私個人としては、昨年から今年にかけて実に不幸を極めて居る、昨年の十月に非常に頼りにして居つた旧師に逝かれ、今年の春は御承知の通り父を亡ひ、そして今又此吾々より先に立つて進み、吾々の後に残つて仕末をして呉れるだらうと思つて居つた処の尊い友人に死なれた。実にこう云ふ不幸な事は又とあるまいと思はれる。即ち二度の事は三度でこれ以上に不幸の事は無い、そして又これ以上の不幸に遇ふた事はない、これが初めてゞ又終りであらうと思ふ。で吾々友人として尽すべき事は、残された友達の吾々は吾々相当の力を以て出来るだけ、岩村君と話して居つた美術界の事、これは区々たる事はどうでも宜いが、日本の美術を発達させると云ふ事を頭に置いて、機関の不完全なものは完全にする様に出来るだけ尽したいもので、其仕事を出来るだけやつて、岩村君の霊を慰めるより外ないだらうと思つて居ります。(談、八月十九日、鎌倉にて、文責在記者)
  (「美術」1-11  大正6年9月)
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