黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎美術館と伊太利亜及仏蘭西

戻る
  一 伊太利亜旅行
 私の伊太利亜旅行の目的は、勿論美術品の研究であつた。誰でも能く言ふことではあるが、伊太利亜は全体が一つの大きな美術館である。其代り巴里のルーヴル程に一堂の内に美術品を無数に集めたものは見つからない、併し小さな市にも多少の美術館があり、又到る処の寺院には保存された美術品がある。寺院の装飾として絵画彫刻が現に多く存して居る、寺院以外にも美術品の陳列された所はあるが、前に言つた通り、ルーヴルの様な大規模のものではない。
 私は伊太利亜に往く以前に、巴里の十年間の留学時代に、常にルーヴルに入つて、伊太利亜の絵を沢山見て居つた、そして伊太利亜の美術に関する書物もいくらか見て、伊太利亜の絵画は、主もにどういふものだと云ふ概念を持つて居た、併し其概念が非常につまらない、極浅薄なものであつたと云ふことを、伊太利亜に往つて初めて知つた。ルーヴルで見、書物で見て、伊太利亜の美術を領解した様に思つて居たのは大間違であつた。今日日本に居て西洋美術を窺ふと云ふことは全くむづかしいことであると云ふことを、私の実際の経験に依つて推察する。仏蘭西の様に伊太利亜に近く又ルーヴルの様な参考品のあるところで、而かも美術の歴史と云ふと、どうしても伊太利亜が土台であるから、書物にも沢山書いて在る、それを見且つ読んだ智識でも、伊太利亜の美術を知ることが出来なかつたのだから、日本に居て西洋の美術を知ると云ふことは出来悪くい、だから欧羅巴美術の参考品と云ふ様なものが、非常に日本に必要である。
 伊太利亜に往つたのは明治三十四年の春であつた、随分時も経つことであるから、細かいことは忘れたが、唯深く印象に残つたことだけをお話しする。そして寺院は勿論のこと、数の多いことであるから、美術館に就ても一々話さぬ。或市に就て、どう云ふものを見たかと云ふことを話すこととする。美術行脚の紀行は、同行した久米君が七八年前に此紀行を書くと云つて企てたことがあつたが、少しばかり初が出来たばかりで、後が続いて出来ない、其時に私の日記なぞも久米君の手許に集めてあるので、今日は、其日記でも見たら幾分か詳しいお話が出来るであらうが、今はその日記の力を借りることが出来ぬから、記憶に残つて居るだけのことをお話しする。
 先づ私は仏蘭西からトリノへ入つた。久米君なぞは私より先に巴里を立つてミラノの方から廻つてトリノで落会ふことになつて居た。
 トリノには美術館もある、此美術館で珍しく感じたのは、日本の工部の美術学校の教師であつたフォンタネジイの絵を二枚程見た、此先生は私は名ばかり聞いて居て逢つたことはないのであるが、日本に来て居たこと、日本の洋画の先輩が此人に教を受けたと云ふことから、其作品を見て、何だか同郷の人に逢つた様な心持がした。
 其外に及埃の古代の王様の石像があつて、こんな種類のものを此迄に見たことがなかつたので、其立派なのに驚いた。
 それからゼノアに往つて、次にピサへ行つた、羅馬へ行く街道筋で、例の曲つた塔があるので有名なところである、そこの美術館としてはカンポサントと云ふところがある、カンポサントと云ふのは墓場であるが、廻廊みた様な造になつて居る中庭のある建物で、敷石に名が彫つてあるから、石の下に葬つてあるのらしい。坊さん達の墓である。壁が一面の壁画で、区劃が出来て居て、いろいろの宗教画が描いてある。ルーヴルにもボチチェリの壁画や、その他には幾許かの壁画があるけれども、壁に付いたまゝの壁画を見たのは、之が初めてゞ、非常に壁画と云ふものゝ高尚なこと、又壁画の色彩の愉快なことを深く感じた。
 尤伊太利亜旅行に就ては私は主に壁画を能く見たい心積りであつた。それで記念の写真を買ふのでも、成るべく壁画の関係のものを買ひ、久米君は額絵のものを主に買ふ様にした。之は経済の上から二人同じものでないものを買ふ様にしたのでもあつたのである。
 羅馬に往つては、流石首府だと感心した、美術品は非常に豊富である、建築物を見るだけでも、西洋の建築の石造の昔のものなどは、成程建築が美術だなと云ふ感じを起させる、羅馬やフィレンツエに在る有名な建築を見ると、欧羅巴の外の国の建築は全く真似物で、流石に本家の建築は簡単にして要領を得て居る、希臘の建築などが完全に残つて居たら、どんなに立派だつたらうと想像される程である。
 羅馬にある絵に就て私の主なる印象は、恥かしながら私の誤解を白状すれば、ラファエルの画は、画聖といはれる人だけれど面白くないと思つて居た、極端に云へば拙いのでないかと思つて居た、処で、羅馬の〓チカン宮殿にある多くのラファエルの壁画を見ると、実に精力の絶倫と云はうか、年少の人が能くもあれを仕上げたものと思つた。画の方から言つても先づ完全無欠と云ふものだらうと思ふ、特に構図が完全なもので、余り完全な為に、所謂ラファエル前派の面白味が欠けて居る、その欠けてゐるところが完全なところで、復興期時代の一番極美に達したものと思はれる。
 それからもう一つの誤解はミケランジュである、此人の画に就ては、予て人からも聞き、ルーヴルで見、巴里で写真でも見て、如何にもデッサンの確かりした作品だが、併し色は左程でなからうと始終想像してゐた、処で、実物に就て、〓チカンの礼拝堂の天井なぞを見ると実に色彩も高尚で何とも言へない。此二人の大家に就ての誤解が全く失せて了つて、矢張り世間の評判通り、二人の人は全く他を凌駕する程の偉い人であることを知つた。
 それから南の方の海岸のナポリに往つた、此処には立派な美術館がある。此美術館にも絵画も沢山にあるけれども、主にポンペイから掘り出した品が、美術品ばかりではないが陳列してある、其内で希臘末期のものであらうが、小さいブロンズの彫刻物が沢山ある、何れも優美なもので、到底後世の人の真似得られない、厭みのない、すつきりとして、高雅な作品である。
 ポンペイは、恐らく多くの人が同じ感じを持つであらうが、昔を今にして見る場所で、其当時を偲ばれて、如何にも斯う云ふ処で、話に聞く様な生活であつたら、佳い美術品が出来るであらうと云ふ心持を、今でも惹き起す。
 美術とは違うけれども、ナポリで非常に愉快の感じを起したのは、ヴィルジルと云ふ詩人の墓である、日当りの好い小山の上に荒れ果てゝあるのであるが、ヴィルジルの詩集を読み、そして此場所を見ると、何といふ取り止まりの付かぬ感じであるけれど、誠に世間離れのする様な心持ちがする。冬の暖い日に日向ぼつこをする様な心持である。実際とは違うかも知れぬが、希臘のアルカディと云ふ処の昔の生活の気分はどんなであつたらうかといろいろな想像が起こる。
 又北に上つて、オルビエトを見、シエナを見た。此の二つの市は小さい、特にオルビエトは小さい小山の様な高台にある、先づ城と云ふ様なもので小山の上を開いて町を造つてある。此二つの市の総体の感じは、如何にも中世紀と云ふ気持で、中世紀に居る様な感じがする。今日の戦争時代にはどんなであらうか、多分今でも余り科学とか機械とか云ふことには縁の薄い方だらうと思ふ。
 どちらの市にも寺の立派なのが幾つもある。特にシエナには市庁に、古代風のもので、日本で云へば大名と云ふ様なものゝ騎馬の絵などがあつたと思ふ、シエナには美術館もあつた、一つの寺には全体の敷石が大理石の大形のモザイクで、三色か四色で、種々な人物を現はしたモザイクで、上の方は人の踏まぬ様に板張りになつて居て、其板を揚げてモザイクの絵を見る様になつてゐる、非常に立派な壁画もあつた様に記憶してゐる。シエナにはソドマと云ふ人の絵が非常に沢山あることを特に気付いた。
 それからフィレンツエに往つた、其途中で、アレッヅオと云ふところのアレッヅオの寺にフランチェスカの描いた壁画がある、此寺は非常に荒れた寺で、日本で言つたら檀家もない寺といふ様なもので、壁などは罅いて、壁画も鉄の棒で支へてある、若し日本で買ひ得られるものなら買ひたいものだと思つた。優美な淡泊な線で出来て、色も鮮やかな、佳い気持のもので、伊太利亜でも、此位の壁画は多く見ない。
 伊太利亜は国全体が美術館といへるが、それを小さく言へばフィレンツエは市全体が美術館であると言へる。復興期の中心になつただけあつて、寺院、官衙などの紀念建築物、絵画、彫刻、彫金類のもの、何として具はらぬものはない、大体の気持が、之を美人に譬へれば、矢張り中世紀の首の長い、着物の直線の襞の勝つた優しい、そして金銀の程好く施された装飾に富んで居る様な有様に思はれる。彫刻物の或物を取つて代表させれば、ドナテロの作品と云ふ感覚がする。復興期は勿論であるが、復興期前、復興期の運動を起した大家の作品が到る処にある、それは今一々挙ることはできぬ。その内の一点を取つても貧弱な市ならば大に誇りとするに足るものが、此市には充ちて居る。
 その外ヴェニスの市である、それは画で言へば、チシアン、ウェロ子ーズ、チントレツトと云ふ人々の作品が沢山ある。フィレンツエ派の人の画と全く趣が異つて居て、能く絵画史に在る通り、色彩が最豊富である、そして皆豊かな鮮やかな感じを持つて居る、チシアンの美人などは有名なものでもあるが、チシアン風の美人と云ふものは全く此土地から生れたもので、現にチシアンの絵生き写しの女を町で見たことがある、実に昔の大家が能くも之れ程自然と同化して居つたと深く感服する。
 ヴェニスでは近頃一年置きに展覧会を開く、そして他国の大家の作品も陳列する、その陳列の方法が如何にも感服するのは、国々が別々の館を建て、その国々の建築をしてその中に作品を陳列すると云ふ風であるが、他の展覧会なぞで、画風の如何に拘らず同列に列べると云ふ勧工場風を離れた特色のある方法である。序乍ら話して置く。
  二 仏蘭西と美術館
 仏蘭西の美術館に就ては、多くの人々も知つて居り、又話もさるゝであらうと思ふが、巴里には有名なルーヴルやリュクサムブールの様な国立の美術館の外に、市立のものがある。
 それには古物或は古文書の様なものゝみを集めたところもあり、絵画だけで独立して居るところもある。或は作家の遺志に依てか、遺族からか、又は富豪から建築物と共に市に寄附して、其保存を市で負担して居るのがある。此種類に相当するものにピュヴィスの作品を集めてあるところがあり、又ギュスターヴ・モローの作品の集めてあるところもある。
 それから宮殿が又一つの博物館になつて居るところがある。其内最人の知つてゐるのは、巴里の市外に在るヴェルサイユの宮殿、フオンテヌブロオの宮殿、それから巴里の近在で、王族方の居られた家で、今は博物館の様に縦覧させるところがあつて、かう云ふところには絵画彫刻を集めてある。
 ヴェルサイユにはナポレオン戦争に関する画が非常に沢山ある、此宮殿に附属してトリヤノンと云つて、皇后の住はれた建物がある、之は建築として最有名なもので、仏蘭西第一だと云ふ評判のあるものである。其建築だけに就ての著書もあつて建築家は之を手本として居る。
 シヤンチュイなども元皇族の住居であつたものの一つである。其他壁画なぞの見るべきものは第一にパンテオンである、之は国葬になる名士の葬られる寺院で、そこには大きな壁画が沢山ある、それから巴里の市庁、壁画もあれば天井画もある。
 学校ではソルボンヌ大学、有名なピュヴィスの壁画がある、薬学校のベナールの壁画も有名なものである。
 国立劇場其他各劇場とも壁画や天井画を有名な大家が画いて居る。その中でグランドオペラが最建築としても立派である。壁画は全部ボウドリーの作である。
 仏蘭西の大きな都会には皆な美術館がある。リオン、ルアン、マルセーユなど其他諸所にある。マルセーユにはピュヴィスの壁画で、マルセーユを理想化したものと、古代の希臘を想像して画いたのとある。リオンにもピュヴィスの壁画がある。其他各都会の市庁などの新築されるときは必ず第一流の大家の壁画があることになつて居るから、仏蘭西は到る処に美術館があると云つてもよい。
 巴里の市有の美術館の重なものが三つある、其一はカルナ〓レと云ふ、元ホテルカルナ〓レと云つたのを九十万フランで市が買つたのである。其の二はル・ミューゼ・セルニッシイと云つて、セルニッシイと云ふ人が市に寄附したもので、一八九八年十月二十八日に開館式を挙げた。ブロンズや陶磁器が多かつたと思ふ。日本、支那のものが多く集つて居る。其三はガリエラと云ふ、元ガリエラ公爵夫人の所有であつたのを、蒐集品と共に市に寄附したものである。
 其他ギメー博物館には東洋の宗教に関したものが多く蒐集されて居る、其中に芝の増上寺に在る羅漢の筆者、狩野一信の描いた十六羅漢の画が三枚ばかりあつたのを見た。
 私は巴里を見ないこと、早や既に十数年になるから、新しくどう云ふものが開かれたかは知らない。
  三 美術館と模写
 ルーヴル其他の美術館で、模写を自由にしてあることは、美術学生に取つて結構なことで、そのものを眺めるといふだけでなく、模写をして初めて古人の用意の周到なところを知り、色の混ぜ方、人物の肉体のこなし、又画面の色調の整へ方など、非常に益することが多い。之は学生から言つたことであつて、模写して居るものゝ中には人から依頼されて商売の為にして居るものも少くはない。模写をするときは、ルーヴルで言へば巴里で有名な画家の紹介を持つて事務所に往く、外国人は大使館か公使館の紹介を持つて往く、此場合は外務省の許可を経るのかも知れぬ。私は教師の紹介を持つて往つた、事務所でどの画かを聞く、何号何番の画であるかを調べて居てそれを答へる。模写をするのに有名な画は模写の希望者が多いから、前以て申出て居るものがあるから、何某が何月何日から何月何日までと願出の順に依つて許可される。先口があつて順番の廻つて来ない時は、先口の人に個人どうし話し合つて譲つて貰ふことも出来る。許可されたときは、青い厚紙の許可証を呉れる。丁度紙入へ入れられる様な小さいものである。近頃リユクサムブールの美術館に模写に行つた人の話に依れば、此許可証に当人の写真を入れるそうである。之は万国博覧会の時の出品人の通行券に用ゐたのと同じ方法である。それを持つて美術館に往つて守衛の頭にそれを見せる、すると其者が画架や腰掛なぞを用意して呉れる、尤其者の骨折に対して酒手を遣る、それには極りはないが、二フラン乃至五フラン位遣る、それが総て世話して呉れる、帰り時は自分で仕末をせずに其位置に置て置けば其者が片付けて呉れる、画も其者に預けて置く、画いて了つた時に心付を遣ると、カン〓スの裏へ白墨で何か書いて呉れる、それは門から搬出する許である。それから描きかけて置て其まゝ一ケ年位(此期間は確かに記臆しないが)の間に画を取りに往かないと没収されて了ふ。私も一枚、レムブラントの画を描いて置いて其まゝ没収されたことがある。此模写に就ての方法は大抵ルーヴルもリュクサンブールでも同じである。聞くところに依るに此数年以来、原寸に模写することを禁じたそうである、尤大きなものゝ一部分を原寸に描くことは差支ないが、全体を原寸に描くことは禁じられたそうである、之は取締の方からは善い方法であらうと思ふ。日本の博物館の様なところでは模写はどうなつて居るか、或は絶対に止めてあるかも知れぬ、日本では西洋のとは取締などに注意しなければならぬ点もあるかも知れぬが、研究者に模写を許すといふことは必要な事であると思ふ。(談、校閲了)
(「美術」1-10・11  大正6年8月9月)
©独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所