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◎藤雅三氏逝去す

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 近着の米国美術雑誌は、旧臘(大正五年十二月)二十三日を以て我が洋画界に極めて関係深き、されど斯界にその名を知られざる藤雅三氏が、紐育に近きヨンカーと称する街の自宅に於て逝去せられたることを報じて来た氏は享年六十四歳、大分県臼杵の人にして幼年より日本画を学び、明治九年工部省に美術学校の創設せられたる際其所に洋画を学び後仏蘭西に留学してラフアヱル・コランの門に入り後亜米利加に渡つて海外に一生を終つた人である。黒田氏は同人に依つて洋画を研究するの動機となり、久米氏はその初め氏に就て学び、松岡氏は氏の同窓にして滞欧中生活を共にしたるの人である。我が洋画界に忘るべからざるの人として諸氏にその追懐談を聞き、氏の逝去を悼むものである。
 私が画家になつたのは、半ば藤君の導と言てもいゝ、藤君を知る前には画家にならうと言ふ様な考へはなかつた藤君がパリーに来られて、藤君の為にコラン先生の所に通弁の意味を以て出入りを仕初めたのが私の画家になる動機であつた。
 藤君を始めて知つたのは、明治十八年頃だつたと思ふ。確か私が仏蘭西に行つた翌年だと記憶してゐる。その頃私はパリーのバチニヨルと言ふ街に、之はパリーでは場末の余り善くない場所として有名の所であつた。然し私の学校のあつた所は其悪い場所柄としては非常に金満家などの多く住つて居る区に接近した方であつたから、悪い場所では最も善かつた。
 これは話が少し横道に入るが、兎に角に私はそのバチニヨルの学校に居つて専ら仏蘭西語の稽古をしてをつた頃であつた。そのころは日曜の他には木曜日の半日だけ外出を許され、日曜日には夜の九時頃までは外出を許されてをつたので、朝は八時半に学校を出て終日日本人の居る辺に遊びに行くとか、公使館附近に遊びに行くとかしてをつた。
 然るにパリーの習慣として、外交官なんと言ふ者は朝はあまり早く起きない、私の保証人も外交官であつた為めに、日曜の朝早く学校を出てその家を訪ね、何日に来たと言ふ証明を貰ふ、それにしても朝起るのが遅いから、部屋に待つてゐると言ふ様な訳けから、いさゝか日曜の暮らし方に困つてをつた折から、私の机の隣に居つた、亜米利加の少年がある。これは仏蘭西語も随分達者であつたし、何かにつけて親切にしてくれた、それで日曜などに外出した時、それの家庭に遊びに行くと云ふことも度々あつたが、その人と交際が益々親しくなるにつれて日曜の朝御寺に一所に来ないかと言ふことになつた。(之の寺と言ふのはコロステンの寺で。)それで之も朝の暇潰しには結構だと言ふやうな考へから、寄宿舎を出ると急ぐにその人の家に行つて御寺に行くとか、寺で出逢ふとか云ふ風にしてをりました。或日其の朝お寺の和尚さんが私の友達の所へ来てそうして御前の所に来てゐる人は日本人の様だが、他にも日本人が一人来てゐるが言葉が解らないので困る、通訳をしてくれないかと言ふことであつた。其来て居つたと言ふ日本人が藤君であつた。其所で始めて知つたのである。その日の約束を通弁して、この藤君と後に至つて、兄弟のやうな交りにならうとはその時は思はなかつた。それから長い間と言ふものは藤君に逢はない。
 恰度私が高等学校を出て大学に行く準備をしてをつた頃であつた。久米君がパリーにやつて来たのは、何でも明治十九年か二十年頃であつたと覚えてゐる、それで久米君は日本で藤君に学んだことがあるそうだ。そう言ふことから、俄に藤君、久米君、私と言ふ様な間に交際が親密になつた。そうして藤君が既に師事してをられた、コラン先生の画塾に入ることになつた。藤君と始め其寺で出遇つたと言ふのは如何にも不思議ですが、藤君はその頃から熱心なクリスト教信者であつた。私とも本当に知り合ひになつて共に画塾に通ふ頃には宗教めいた所は全くなく、非常に快活な人でありました。
 吾々はたゞ簡単に友達として、やゝ年齢が違ふために、吾々より世の中のことに通じてをつたと言ふだけで交際して来た。何んでも三年間位ひの学費を用意して来たやうな話しで、随分貧乏な生活をつゞけてをられて、傍ら日本画の事業などもしてをられた。主に扇面に画を描くことをしてをつたやうであるが、これは、コラン先生の世話であつたかの如くに聞いてゐた。随分苦学した。そうして勉強家であつた。困つて居る中にもサロンの出品画を製作したことがあつた。その画は藤君が小さな間借りをしてをつたその家の門番の夫婦か何かをモデルに頼んで描いたものだつた。
 子供がズボンを破いて来て御母さんに叱られてゐる、その傍に親爺は子供を見つめて、黙つてゐるところの図で、画題は「ズボンの破れ」とか言ふので、横は一間半もある大作でありました。私が二十二三の頃かと思ふ、この画がサロンに及第しました。然し賞は貰らはれなかつたやうです。そうして亜米利加人が買つたと言ふことを聞いてをります。何んでもその頃が藤君としては最も画のために勢力を尽してをられたことであつたらうと思はれる。
 その後私の記憶してをるのは、揺籃の中に子供を入れて其傍に女が一人をるところの図で、これも大きさに於いては前と変りもなかつたが、前には下等の労働者の家庭を描いて、後には中流の家庭を描いた、その画面の婦人と言ふのは大変に立派な着物を着てゐたやうに思ふ。然し其画は遂にサロンには見えなかつたやうに記憶してゐる。
 その頃から藤君はパリーを去つて、亜米利加に行つた。去る前に仏蘭西の女と結婚した。でその結婚前までは私と久米と藤といふ間は兄弟同様の間でやつて総て遠慮なく話し合つてをつたが、結婚すると間もなく亜米利加に行つて了つたと云ふことを聞いたが、その後はハタと遠ざかつて了つた。藤君はあれまでに親しくしてゐた吾々にさえ何の話しもなく、公使館あたりへも何の音沙汰もなく仏蘭西を去つてしまつたのである。
 以来全くその音信もなければ、無論逢つたこともない。それで亜米利加に行つた当座のことは、蔵原君から聞いたことがある。蔵原君がいろいろ世話をしてやられたと言ふ話しであつた。
 藤君の容貌は先づ朝鮮人のやうな長い顔の人で、鼻は高かつた。如何にも朝鮮式に目は細く釣つて唇は厚い方であつた。少し猫背ではあつたが、丈も高い方で日本人としては美男子の方に近い。一所にをつた頃は、他人が尋ねれば、二十七歳だと言つてゐたが、やつとその位ひの年齢に見えるか見えないか位ひの容貌であつた。然し実際は四十歳近い年であつたらうと思ふ。美術技倆と言ふやうな方面は極めて達者で、日本画などもなかなか善くやつた。藤君がパリーで扇面などに描いた花鳥は大分人の賞讃を博した。その頃盛んに描いてゐた陶器画の方も、素よりこの洋画の素養と言つたより日本画の応用に依つて製作して居たのだらうと思ふ。作品を一つも見たことが無いが、何でも藤君の製作に依つて製造せられた陶器が、平九百年の博覧会の時に金牌を得られたとか言ふ噂を耳にした。
 松岡壽君が伊太利からパリーに来られた時に、藤君と隣り合せに画室を持つて居たことがあるが、恰度その頃私が今でもよく記憶してゐるのは、天長節の時だつたかと思ふ、松岡君等と藤君の画室に集つて、盛に葡萄酒を飲んだことがあるのです、その時藤君が何所から借りて来たか、三味線を持ち出して来て弾きました。異郷の地で三味線の音を聞いたので非常に懐しい念ひに、その興奮の結果、皆んなが酔つぱらおうと言ふやうなことになり、私なども大変に酔つてしまつて帰りにすつかり吐いて了ひました。藤君はそう言ふ風に三味線までもひけると言ふ、とにかくに多芸の人であつたのです。
 先頃私どもはコラン先生の訃を聞いたので殊に藤君のことは思ひ出してをりました。そうして私の先輩ではあるし、画描になる動機を与えてくれたものであつたのだから、亜米利加に居るか、仏蘭西に居るか、先生の訃を聞いて何と思つてゐるだらうと思ひ出したが、パリーを去つてからは先生とも全く交りを絶つてをつたやうである。一年のうちにこう、先生と先輩とを一時に失つたと言ふことは、何だか心細い感じがしてならない。
  (「美術週報」137  大正6年2月4日)
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