黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎コラン先生逸事

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□コラン先生のいつも褒めて居られたデッサンはミケランジュとホルベインとアングルとピュヴィスのでした。アングルやホルベインの油画はさほど褒められなかつた、もつとも、油画となると塗つた様な画で余り面白くない、それで先生は「デッサンとしては最巧い」と言つて居られました。油画で始終褒めて居られたのはコローでした。私が「コローの風景はよいけれど、人物はまづい様です」と言つたら、先生は「いやそうじやない、人物は人物画家中でも、あれ程の人は尠い」と言はれました。十八世紀の画家の中ではシヤルダンを最も褒めて居られました。 □先生の友達の中で、最も懇意になつたのはコルモンぢやないかと思ふ。コルモンの画は、先生の画とは全く趣の違つたものだけれど、先生はコルモンのことを言はれる場合に、始終「モンナミーコルモン」と言はれた、必ずモンナミーを付けて言つて居られました。
□先生はカバネルに就かれる前に、ブグローに習つて居られたことがあるそうです、ブグローの画は綺麗一式な画で、ちよつと俗なところがある。先生もその画は感心して居られなかつた。ブグローの画に就ては、デッサンが円る過ぎるとか云ふ様な世の定評があるから、それ等に就て、私が或時先生に尋ねたら、先生の言葉は今しつかり記憶して居ませんが、「画としては余り感服せぬけれども画家の内で一番博識-無論画に就ての-だ、あれ程の物識はない」と言ふ意味の事を答へえられました。
□先生が画室で画を描いて居られるときに往くと始終振り向いて私共に、「これでどうだ」とか、「これでよくなつたか」とか、「これでよく見えるか」とか、口癖のやうに尋ねられた。細かいところを何時までも熱心に突つついて居ては、そう云ふ評をさせられました。
□メッソニエが死んで、ビュヴィスが新サロンの会頭になつた。そのメッソニエは、虫眼鏡で見る様な細かい画を描く人であつたが、或時先生は、一寸した紙に鋳懸師の仕事をして居るところを描いた画を何処からか買つて来て喜んで居られた。何だかつまらないものゝ様に思つたから、不思議に思つて、「其れは一体どうした画ですか」と訊きました。先生は「デッサンが非常に佳い、メッソニエでなくては斯んな画は描けない、真にメッソニエの描いたものに違いない、反故の様なものだけれど」と答へられました。
□どんな大家でも、よく嫉妬の気味で、同時代の人を貶なすものですが、先生は決してそんな事はなかつた。中々気持の大きいところがありました。その一例は、私をピュヴィスに紹介して下さつた時、手紙を添へて下さつたのですが、其頃ピュビィスは新サロンの会頭で、先生の属して居られるサロンと反対のものであつたのです、日本人などの場合から言ふと、自分の関係のないところへ紹介する様なことはないと思ふ。然るに先生は広い考へを有つて居られた。そして私の画がピュヴィスのサロンで及第したところが、先生は非常に喜ばれて、来た人々に私を紹介して、「之は私の弟子で、ビュヴィスのサロンに及第した」と話して非常に喜んで居られました。
□「ダフニスとクロエ」の挿画を描いて居られた頃墺太利の風景画家で、オルマンと云ふ人が稽古に来て居た、四十歳位で、先生と同年位の人でした、或る時其人の描いた風景画が四五枚先生の画室に置いてありました、皆小さい画でしたが借りて置かれたのだと聞いたので、私が「そんな画を何になさるのですか」と訊いたら、先生は「画は拙づいけれど、参考になるところがある」と言つて居られた。脂つぽい画でしたが、忠実に描いてあつたから、何処か材料になるところがあつたと見えます。
□先生は小さなスケッチみた様なものに依つて製作されたことが度々ありましたが、さう云う様なものを材料にして画を拵へられることには私共は感心して居ました、能くこんなものが役に立つと思はれました。
□大作は大抵、デッサンはデッサンで人間の体から取られて、そして色は色で別にいろいろスケッチ様のものを描いて置かれた、傍から見ては一向役に立たぬ様なものを材料にして居られた。色の材料は夏の内に別荘の庭でモデルを使はれて、材料を拵へて置いて、冬に巴里の画室で製作せられました。先生のスケッチは皆大作の材料でした。 □先生はカン〓スや絵の具に注意して常に極上等のものばかり使つて居られました。そして額縁と画の調和と云ふことにも深く注意して居られました。此はピュヴィスも同じことでした。私がピュヴィスに画を見て貰つた時に、画を見た後で、之はどう云ふ額縁に入れるかと尋ねられました。画と額縁との調和に注意して居たからです。
□先生の画室で使はれる椅子は英吉利製のものでした。之はたしか一八八九年の博覧会の時に需められたのだと思ふ。先生は使ふ椅子には英吉利製が一番坐り工合が宜いと言つて居られました。
□先生の画室には三十斤の鉄亜鈴と、大きな棍棒が一つありました。画を描いて疲れた時、それを振り回はして居られた。腕力が強くて、手を水平に伸して三十斤の鉄亜鈴を容易に支へられた。
□先生は左か右かどちらかの眼が悪くつて、能く視えなかつたが、「却て形が両方の眼で見るよりもハツキリ視えて好い」と言つて居られました。
□或時先生は何処かへ旅行をされて、雪の景色の三十号位の画を持つて還られた事がありました。私等が其画を見て居た時に、先生は「自分の風景画と云ふものは珍しいだらう」と言はれました、私等も先生の人物画の附属の風景画は随分見たことはあつたが、純粋な風景画は見たことがなかつたから珍らしいと思つたのです。先生は又「自分は絶へず人物を描いて居るが風景も得意なんだ」と云ふ様なことを言はれました、多くの人物を描く人の背景の風景は、大抵粗雑に自然を観てあることがあるが、自分は自然の観察には始終深く注意を払つて居るのであると云ふ意味でした。之はつまらぬ事の様ですが、実際人物画には自然の観察を粗略にして居る人が多いから、先生の画を疎そかにされなかつたことを知るには面白いことゝ思ふのです。(談)
  (「美術」1-4  大正6年2月)
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