黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎コラン先生の追憶談

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 先生は一八五〇年我が嘉永三年の生れで今年が享年六十七歳である。画才は早くから発達した人で、十七八歳頃に描かれた自画像をお宅で見たが、うまい絵であつた。この絵は今何れかの博物館の所蔵になつて居ると見えて、昨年の桑港博覧会に出品されてあつたと聞いた。
 二十二歳の時サロンの二等賞をとり以来社会に名手として認められた人である。そのサロンの二等賞の絵は、熊の皮の上に居る女の裸体画で「さむがり」と題するものであつた。不幸にして、その絵は見なかつたが、仏蘭西のルアンの博物館に保存されてある。
 始めて先生の所に行つたのは、明治十九年の春から夏に掛けての頃だと思ふ。藤雅三と云ふ人が、その半年程前かと記憶するが、油絵を研究する為めに巴里に来て居た。私は絵が好きであつたから、その人と知己になつて居た。然しその人は来たての事だし、自分は二年ばかり過ぎた後で殊に仏蘭西に来ると、すぐ塾に入つて仏蘭西人の仲にヒタとはいり込んで居たから比較的早く言葉を覚えた。それで、ある時其人に頼まれ通弁の如くにコラン先生の処に行つた。暫くの間は、先生を知つただけでその頃は絵を稽古する積りでなかつたから、唯だ絵に就いての先生の批評を聞いて藤に通弁してやるのが主であつた。
 然し先生の処へ行く毎に、素より好きな性でもあり、先生の態度、作品に接して非常に絵と云ふものが面白いものと感じ、稽古をしたくなつた。それでも未だほんとに思ひきつて、絵描になる決心が少なくつて、言はゞ、慰さみ半分に稽古をして見たくなつた。それである時先生に絵を稽古するには、どうしたらいゝでせうかと尋ねたら、先生は先ずルーヴルに紹介するから、希臘の彫刻物などを写生して見ろと言はれた。これが私としては病みつきの始めであつた。其年の夏休前にルーヴルで大理石の像を十二三枚写生し、夏休にはスケッチ・ブックを買つて白耳義へ旅行した。それから一年間は傍ら法律大学に通ひながら絵を描いた。然し、その間に久米君も絵をやつて居られるし、又私も好きな道とて、交際も久米、藤が主なものであり益々法律と遠ざかる様になつた。で、二十年の十月であつたかと思ふ、十月が学年の始りであるので、その時から私は法律学校を断然止めてコラン先生の指導を受ける事になつた。  それから二十六年まで先生について居たから足掛け八年間先生に教へてもらつた様なものだ。それで先生の方から見ても、全く手解きから教へて下さり、こちらから思へば真に自分の一身の将来を授けてもらつたのであるから、八年間は余り長い年月ではないが、全く親に対するかの感がして居る。
 平常先生の私共に対する挙動、扱ひ振りは全く他郷の人、異人種に対する様のものではない。少しの隔なく扱つて下すつた。先生の画室に行つて教へを受ける時でもお宅に行つた時でも、格別に可愛がつて下すつて世間の画家、画風に対しても腹蔵なき意見を聞かしてもらつた。そして家庭的の食事等にも度々招かれ、又先生の別荘に一緒に連れて行かるゝ事もあつた。殊に今でも忘れ得ざるは一日ルーヴル美術館に同行して下すつて、各国の名画に就いて、その見る可き点、即ち学生として注意す可き事を詳細に指し示して下さつた事があつた。これなどは時のたてば、たつほど、非常に有益な事に思ひ、益々先生の絵画に対する鑑識の高い事を今更思ひ当る。若しこの事が無かつたならば、私は西洋画の筋道に就て、恐らく今日の様な混乱した時代には甚しく迷つて居ることであらうと思ふ。
 先生の別荘と云ふのは巴里の郊外で、東京で言へば目黒とでも云ふ可き処である。町をなして居る程の処ではない。
 そこは始めの頃は全くの別荘で、庭園のなかに三室か四室かの二階建の小さな家が一軒あつて先生は多く日曜に行かれた様である。其他外光裸体画などの下絵を作られる時に、その別荘の庭で人体写生などやられた。住居は巴里にあつた。後に先生が父君を失はれた頃からかと思ふが、別に又一軒同じ田舎に家を持ち、庭園も外にまた一つ広い処を借りて、全く田舎住居になられた。
 然し画室は始終巴里であつた。そして毎日巴里に通つて来て製作して居られた。その巴里の画室と云ふのは、ヴォージラールと云ふ町で、その町の場末に近い方にロンサンと云ふ袋町がある、その六号地であつた。この画室は私が、はじめて先生の処へ行つた時から今日に至るまで同じ処であつた。画室内の装飾、道具の配置も多く変て居ない。私が弟子入してからこの方、著しく違つたのは日本の器物が非常に多くなつたのと、十七八年前から希臘のタナグラ人形の蒐集をはじめられた位のものである。又始めから画室の隅にあつた鉢植の棕櫚が段々大きくなり葉を拡げて来て居た。
 先生は花ものを非常に好かれて、始めの別荘は庭があつても、これに栽培するほどの広さではなかつたので、其外に千坪ばかりの地面を借りて、そこでは専ら花ものを栽培された。温室は可成のものが二つあつて、主に蘭科植物を栽培されて居た。日本の、例へば牡丹とか百合とかも取寄せられた事もあつた。先生の庭で最も綺麗であつた花で、記憶に残つて居るのは石楠花であつた。種類も多くあつて非常に美しい花を見ることがあつた。一九〇〇年即ち明治三十三年に行つた時などは、この庭の一隅に小高い丘があり、その上に亭のやうのものがあつて、そこで先生の母堂--その頃未だ存命であつて八十歳位であつたらう--などゝ写真を写したこともあつた。そして賑やかな楽しい食事の饗応を受けた。
 先生の住居は其三十三年当時はこのフォントネーの田舎で、庭園より一町位隔れた処であつた。極く質素な家で住居の方には別段庭はなく、往来に面して門もなく、直に這入れる家であつた。玄関を這入ると、一寸三間計りの廊下があつて、二階へ上る梯子があり、その二階が先生の部屋であつた。その部屋には、二三の伊太利古画の写真が額に入れて掛けてあつた。
 最も記念に残つて居るのは、一番始めの別荘で、それは矢張後までも持つて居られた。然し空家にしてあつて住まつては居られなかつた。この別荘は矢張り同じフォントネーであつたが、花畑のある別荘より約半町ばかり隔つて居た。この古い別荘の庭が先生の製作の内に多く描き入れられてある。前田候爵家に保存されてある、先生の傑作の一も、この庭園の一部が描いてある。杉子爵家の所蔵に係る、編物をして居る少女の画があるが、その背景もこの別荘の橡の木の枝が背景になつて居る。林忠雄氏の所有になつて居る大幅の女の肖像がある。その女の倚り掛つて居るのもこの橡の木である。私もその肖像の下絵を戴いて持つて居るが矢張りこの樹が描いてある。この別荘には花ものとしてはチューリップが沢山あつた。その他には、モネー・ド・パープ(法王の銭)と云ふ団扇太鼓のやうな形の実が出来る奇草で、その枯れ技を賞観する草があつた。その枯れたのを今でもこゝに記念に持つて居る。渋谷の合田君がこの草の種を先生からもらつて来て植ゑて居る。
 其外に巾四五間、奥行は少し広い芝生があつた。これを先生が外光のアトリエとして居られた。
 そこで色々な製作の下絵も習作も出来た。そこは先生が専ら裸体を外光で描かれた処である。
 リュクサンブール美術館にある裸体画も多分こゝで出来たのだらうと思ふが、これは私達の弟子入前のことで、はつきり解らない。
 其後のものは多くこゝで描かれたのを知つて居る。又私が一所に行つた時も先生がモデルを連れて来て、裸体にはしなかつたが、そこで逍遥させて、之を観て自然の色の美しさをそれこれ言われたことを記憶する。
 この戸外の画室は西と南の二方が石垣で、それには萄葡など這はしてあつて、少しばかりの植込みなどもあつた。北側は別荘の家で窓が芝生の方を向いて開かれてあつた。その窓のなかに軽い夏の服装をした美人が立つて居て、窓の上には白い壷に、赤と白との混じつたグラジオラスの切花の図などを描かれたことがあつた。
 東側の方は、庭の方へ続いた処であつて植込みがあつて垣根があつた。家に近い方に入口があつて傍に薔薇が生えて居たと思ふ。それで全く四方囲まれた、非常に清らかな、心持のいゝ画室であつた。私も是非こんな画室が欲しいと云ふ気が始終して居る。此所などは先生を記念するには一番屈竟な場所であるのだが、若し日本などであつたならば、どうにかして、その別荘だけは先生の記念として保存したいと思ふ様な処である。
 先生は一寸交際したゞけでは、決して快活な人ではなかつた。寧ろお世辞のないところから、甚だブツキラ棒なところがあつた。然し性質はそんな人ではなく、人には親切で、心の内は快活な人であつた。それで始めから近い頃に至るまで情誼の間に間断がなかつた。ズツと同じで通つて来た。
 巴里でも先生と一所に散歩した事、食事したこと、カツフェに行つたこともある。或る冬の晩、夜遅く、どこへ行つたか覚えないが、小さいカツフェに這入つてマレンヌと云ふ小さい牡蛎を御馳走になつた。これは何んでも一ダース四フラン位で吾々書生には高いものであつた。その時先生は特に酢のなかに大蒜を刻み込んだのを言ひ付けて、それを牡蛎に掛けて食べて見ろと出された。これは仲々通な食べものであると云ふことを其時始めて知つた、先生は-こまかい事だが-身体の大きい人で、先づ五尺八寸位の高さであつたので、私と並んで歩くと丁度私の頭が先生の肩のところ位まで行くので、よく私の肩の上に手を掛けて抱えるやうにして歩かれた。そうして冬でも手袋を使はれたのを殆んど見たことがなかつた。不断は始終背広で、何処か真面目な場所へ行かれる外にはフロックコートは用ひられなかつた。モーニングは用ひられなかつた。背広は胸を開けられたことを見なかつた。始終ボタンをかけて居られた。カラーは立カラーを用ひられなかつた。この外に、先生は自分の身飾と云ふことに、頓着されなかつた。襟飾にピンを挿すとか、指環を嵌めることは決して見受けなかつた。ハンケチには香水を用ひられなかつた様だが、化粧用の香酸を入れた水で身体を浄めて居られた。髪の毛は仏蘭西で云ふブロンと云ふ色で、薄茶色で毛は薄い方であつたが禿げては居なかつた。そして分けて居られた。鬚も濃い方ではないが、顎鬚を生され端をキリスト風に両方に分けて居られた。そして西洋人には珍しくジャンコがあつた。殊に鼻の上に見えて居た。力が非常に強かつた。先生の画室には鉄亜鈴の三十斤のがあつたが、これを片手に持つて肩と水平に楽に支えられる位だつた。自分達にもやらせられる事があつたが、とても持ち切れなかつたが、身体の割に力があるなどゝ笑はれたこともあつた。
 毎日朝か午後かに田舎から画室に出て来られて半日はキツト勉強された。そして夕方仕事を終つた後には必ず強度の空気ランプの光で一応念入に作品を見られた。これはあちらでは昼と同じく夜も観られる場合が多いので、昼見た色の感じが夜も変らないやうにと苦心されるのであつた。それで若し夜の光で不満な点が見出せると翌日そこを直されると云ふやうに根気よく之を繰返へされた。長い間掛かつてこの検分が一応すむと、お定りの飯屋へ行つて夕食を食べられるのが常であつた。或は昼食を飯屋で食べて晩には田舎へ帰られた。飯屋にはいつも御常連があつて、親しい一団が出来て居た。斯様な生活は単調といへば云ふものゝ巴里の独身者の生活は大抵そんなものである。現在五十五六位の妹御と二人住居であつた。妹さんは今でもさうだらうと思ふが絵を教へに出て居られた。西洋人には珍しい内気な質な人で自分の絵を人に見せる事を好まれなかつた。
 ある日私が先生のお宅で御馳走になつた時、先生が妹さんを冷かして絵が仲々うまいから黒田に出して見せろと言はれたので、無拠水彩画を三四枚見せて下さつた事がある。私は先生の四十四五歳頃まで就て居たが、妹さんの年は知らない。十二三歳違ふとして当時三十二三歳であつたらうが先生は子供のやうに戯談や冷かしを言はれて居た。先生には奥様も子供もなかつた。極く仲のいゝ兄妹で、年から言つても親子の様な情合のあつたことが思はれる。妹さんも独身であつたが、此度の不幸で一人残られると云ふことは遠くこゝから思つても、お気の毒に堪えない。
 十月二十四日附巴里発で青山熊治から手紙が来て先生の臨終の事を知らせて来た。先生は九月の始から保養の為めにノルマンデーに旅行されたが、病気が悪くなつて一時危篤と云ふのであつたが良くなられたので、十月十八日の日に巴里へ自動車で帰途に就かれた処で、又俄に病革り、十九日の朝ブリョンの旅館で没せられた。青山が小柴錦侍君と相談して、吾々旧門弟を代表して会葬し、花環を霊前に供へた。又在巴里の鹿子木氏は松井大使の名代として会葬されたと云ふ事である。米国雑誌の報道とは、没せられた日が違つて居るが、没せられた事は全く事実となつた。実に吾々は哀悼に堪えない。更に又先生の葬儀は十月二十四日学士会員其他の会葬あり非常に盛大に行れたと云ふ別報が来た。不幸の内のせめてもの心遣りである。(談)
  (「美術新報」16-2  大正5年12月22日)
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