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◎文展の感想-スケツチ以上に進みたい

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 金山君の絵ですか、金山君は近頃欧羅巴から帰つた所謂新帰朝者としては、片寄らない、穏健な平易な態度で、自己の習得し、研究した途を歩んで居る、そこが物事に中庸を得た同君の性格を能く顕はして居る。今度の出品も穏健と評すべきものである。
 南君の絵は変つたと云ふ人があるが、あれは変つたものではない。「瓦焼き」の様なものから、去年の「葡萄棚」の朴訥な調子のものになつても、いつも南君の性格を現はして居て、自ら一貫したものが其中にある。今年のは印度の旅行の影響になつたものであるが、今後も必しも印度のものを続けて画くかどうか、それは分らぬ。「五境」は装飾風の画であるから、額縁なども、モウレスクの様な一種の装飾風に工夫して、アーチの内に入れて在る。我々画家は常に画と一致する様に、額縁にも大に注意を払うのである。
 作品に就ては今余り彼是云ひたくないから、其話は止さう。併し藤島君の画に就て一言する。
 藤島君の今年の画は、場中で最注意して見るべき画だらうと思ふ。色の選択の宜しきを得て居ることは注意すべき作である。元来藤島君はトーンの点に於て独特の長所を有して居る。私は段々年を取つて、兎角感覚が鈍くなつて来たと自覚して居るから、強烈な日の光とか、又は描法の巧妙などゝ云ふ様なことには、聊か飽きた気味で、色調の選択の宜しきを得て居ると云ふ様なことに、最深く興味を感ずる。色調を特に貴ぶとか、楽むとか云ふことは、又此老眼の結果かも知れない。併し色調に重きを置く為に、他の妙所をけなすわけぢやない、私は二十か三十の頃には其年頃相当の興味も有つて居たが、其興味や嗜好が依然として若くても年を取つても変らぬわけにはいかない。老人には老人の興味や嗜好がある。私の今の興味嗜好は、十年前のそれと違ふ、又は三年前のそれとも違う。私の慾を言へば、一体にもう少し、スケツチの域を脱して、画と云ふものになる様に進みたいと思ふ。まだ殆んどタブロウと云ふものを作る腕がない。之は技巧をけなす今日の時代ではチヨツトおかしく聞えるだらうが、技巧と謂つても悪るい意味の技巧を指して云ふのではない。自分の主張するところを現はすに適当なる技巧を云ふのである。それになるには画を美術品として取扱ふやうになりたい、其為には技術を練磨したいダイヤモンドを磨く様な感覚を持つやうになりたい。何故と云ふに、西洋で製作された画は、クラシツクなものでも、唯無闇にいぢくつたものではない、無闇にいぢくるのは弊だが、作品相当に、熱心に、根よく製作を仕上げることは何れの派の画家にも共通に見える。それが日本のもので見ると如何にも粗雑だ。感じを与へるとか、与へないとかやかましい審美的の議論よりも、一見皆いゝ加減なものを作つて居るやうに見える。未熟で、仕事に落付きがない。主張などは銘々違ふのだから立場々々で互に充分発揮していかなければならんけれども、主張に伴ふ製作と云ふ上からは、もつと熱心に画を作るといふことを努めねばならぬと思ふ。之は敢て他を責めるのではない、自分を警しめるのである。自分達の画は粗雑である、それを深く恥づる、どうもその点が他の画にも見える様だから、自分に求むるところを〓に述べて置くどうしても此のスケツチ時代を脱しなければならん。今の処ではスケツチだから、心持が現はれて居るが、スケツチでない画にも、心持を充分に現し得る程度に進みたい。私自身も、今迄殆んどスケツチだけしか拵へて居ない、之から画を拵へたいと思ふ。
 本年の洋画の出品を見ると、一般に進歩したことを知ることが出来る。本年の入選点数が比較的少いので、鑑査が厳重になつたと云はれて居るが洋画部の方では、決して厳重にした訳ではないのである。厳重と云ふと、何か規則の様なものに当てはめる様に聞える、又是れまで粗雑に見て居たのを今度は綿密に見て選り別けでもした様にも聞えるが、実際はさうではないので、年々の鑑査の標準は、出品が鑑査委員に教へるのだ。勿論それは比較の上で生ずるものなんだから、良い出品の多い時は、勢ひ標準が自ら高くなるのである年々出品の出来工合が進歩して来るから、選択の標準が自ら高くなつて来たのである。仮りに昨年選択した位のものまでを入れたら、百五十点位までは取れたであらうし、二三年前に取つた位のものまでを入れたらば、二百点以上に達したであらう。
 古く既に名を成した人達は別として、比較的新しく名を成した、新進と云はれる人達の作が、本年の会場では余り目立たない、それ等の人達は、ちよつと停まつて居る、勿論其停まつて居る内にも更に進歩するのではあるが、其進歩の跡が、さほど顕著でないのに、後から進む人達が著しく進んで来た。勿論技術の点は必しも、所謂新進の人達を凌駕して優れて居る訳ではないが、陳列した処では両者が殆んど同じ位に見える。所謂新進の人達の作が目立たなくなつた。之は確かに一般に進歩したことを証明して居るのである、(談)
  (「美術」1-1  大正5年11月)
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