黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎ピュヰス先生会見談

戻る
 私がピュ〓ス先生に会つたのは一八九三年三月の初めで、処は巴里プラス・ピガルの画室兼住宅でゞあつた。其年のサロンに出す絵を見て貰ひに行つたのである。ピュ〓ス先生は其時代、シァン・ド・マルスの新サロンの会長であつた。私の先生ラファエル・コラン氏は旧サロンの審査員であつたが、私の出品しやうと云ふ画に就て先生の意見を聞いた処が、此画はシァン・ド・マルスの新サロンの方へ出品する方が適当だと思ふ。就てはピュ〓ス先生に紹介するから先生の処へ行つて批評して貰つたらよからうといふ話で紹介状を貰つて出かけた。ピュ〓ス先生は朝早いと聞いて居たから朝のうちに行かねばいかん。何でも七時半頃か八時頃でした。行つて訪ねるとしやつ一枚にづぼん丈のお爺さんが戸を少しあけて「誰だ」と云ふ。「コランの弟子です」と答へた。ピュ〓ス先生は少し考へて居られたが記憶にないといふ風である。其当時コランといふ人には二人あつた。一人はギュスターヴ・コランGustave Colinでゴブランの絵かきと私の先生のラファエル・コランRaphael Colinとだ。旧サロンの審査員のコラン先生であると云ふて紹介状を出した。思ひついた様に、それではと画室に通された。顔を洗つて支度して衣服を着更へて出て来られた。そこで実は手紙にも一寸紹介してある様に、私の絵を見て頂きたい、サロンに出す丈の資格があるか又私の絵に就て教を願ひたいと、先生は非常に夫れから叮嚀に応答された。其大意はまー第一に絵の大きさを問はれた。其絵は高さが一間位ありますといふ。ソンナ大きなものなら私が見に行かう、何処にあるかと云はれる。私は画室がないから公使館で書いて居ります、御出を願ふのは恐縮であるから持て参ります。そんならそうして呉れ、と云ふ事で其他は日本の話も一寸して、シヤムから画かきが来て先生に就て画を学んで居るといふ事であつた。それでサロンの期日も接近して居るから其翌日を期して持つて行きました。すると自分のシュ〓レに私の画を乗せておさえたり、紐を持つて来たり、好い位置、好い光線の処に置き暫時熟視して居られた。ソレから誠に叮嚀に感じたのは批評するに先だつて「批評する事を許して呉れるか」と云はれた。而して批評して呉れられた。「実際の形は之でよいけれども絵にした時はコー直せコーけづれ」といふ話。〓に一つ述べて置きたいのは其時画室のつきあたり長いそふぁーの上に腰掛けて居るお爺さんが居た。頭髪も乱れ毛皮の衣を着て居る半白の老人である。兎に角ピュ〓ス先生の親友だと思ふた。此先生、こはい眼をしてピュ〓ス先生の穏やかな顔と甚しいコントラストの容貌であつた。ピュ〓ス先生の容貌はまー大体写真で見る様な人で乃木大将の晩年の様な髯、頭はうすく禿げて体は大がらで五尺七八寸位の丈であつた。そして年は七十二三でもあつたらうか非常に頑丈なお爺さんで然し柔和な言葉挙動も叮嚀な念入りな人であつた。而してまー平素は無口であつた様、必要な話でもなければせぬ風であつた。然し初めから打ちとけた様な話ぶりであつたが其友人とも思はれるお爺さんは正反対に何だかおつかない陰気な老人であつたが私の絵を熟視して居る。ピュ〓ス先生の批評が一通り済んだ時に其老人はやはり私達の後に立つて絵を見て居たが其時恰も怒りつける様な調子でピュ〓ス先生に向つて「あの足はいけない注意してやれ」と命令的だ。ソレから「成程ソーだ」と云つて私の絵の足の部分を批評された。此不思議な老人は後で聞けば或はエンネルHennerであつたらうといふことであつた。此批評がすんで出品の資格はありませうかと尋ねましたらCertainementといはれた。併し直すのには日時がかゝるし期限(三月二十日と記憶する)迄は僅かよりないから猶予の書付をあげるから、出来たら開会前でいゝから此書付を添へて出品せよと云はれた。(文責在記者)
  (「美術新報」15-10  大正5年8月13日)
©独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所