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◎欧洲の風景画家

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風景画は極古代の装飾画にはあつたらうと想はれるのは、ポンペイの壁画に幾許か人物も混つて居るが家屋其他の構図が風景画と思はれるのがある、併し中世以後復興期などには主に人物の背景として用ゐられた。欧羅巴各国で種々の画派も多い中で、和蘭では早く風景画の独立が認められて居た様である、随て風景画家も多く輩出したが、大凡一五〇〇年代の末から、一六〇〇年に渉つて段々多くなつて居る。其中で能く人に知られて名高いのは、ヤコブ・フアン・ルイスダエルとメンダルト・ホベマとである。ヤコブ・ルイスダエルの叔父サロモン・フアン・ルイスダエルも画家であつたが、甥のヤコブの方が名高い。此人は一五〇〇年から、少し後れて生れて一六七〇年に死んだ。此人の風景画で多く見るのは渓流の様な処が多く画かれて居る、それから山があつたり、山の上に城が付て居たり、中には和蘭の景色らしくないのも多く見受ける。固より和蘭の風景も画いては居る。それから、ホベマの方は、ルイスダエルに比べて遥に穏かな景色を画いて、和蘭の自然を能く現はして居る。此二人も、其当時にはさう有名でなかつたと見えて、伝記などは甚だ明かでない、ホベマは一六六八年に三十歳であつたと云ふことが残つて居る。二人とも同時代で友人であつた。
 和蘭のハーゲの博物館にある有名な「牡牛」の画を画いたポウラス・ポッテルなどは、動物画家とした知られて居るが、風景の中に動物を画いたので、風景画も中々多い、此種のもの、即ち動物を画き込んだ風景画は和蘭に多い、和蘭の画にはさう云ふ傾向がある。
 英吉利にも風景画家の名手が沢山あるが、其中で人の記憶に存して居るのみならず、非常な大家として認められてるのはジォン・コンステーブルである。之は一七七六年に生れた人で比較的新しい、随て自然の感じ、自然の色、自然の趣と云ふことが能く現はれて居る。それから、云ふまでもなく有名なターナーは立派な風景画家であつた。
 仏蘭西の古い時代に風景画で有名であつたのは、クラウド・ラウランで、一六〇〇年に生れ、一六八二年に死んで居る、本名はクラウド・ゼレと云つた。此人は時代に容れられなかつたのか、又は自分の好みであつたのか、伊太利亜に住んで居て風景も伊太利亜の景色を画いた、大胆な試みをした人で、太陽の直射する光線を画いた、日に照らされた、奥行のある景色を画いた、つまり光線を浴びて居る景色が此人の特色である。
 風景画の最も発達したのは十九世紀の半ば後で所謂自然派の発達と伴つて、非常な域にまで進んだ。自然派の画家は大底皆巧に風景画を画いた。人物画家でも人物や動物と同じ様に風景を画いた、人物画の中にある風景でも中々上手に画いてある。併し風景画としては誰しも指をコローに屈するのである。コローは一七九六年に生れて一八七五年に死んだ。
 コローの画は無論風景画ではあるが、人物の入つた風景で、人物を加へて益々風景に詩的感情を増して居る、中には人物を主にして風景を添へた画もある、此人の人物は所謂風景画家の人物と異つて、人物が巧くかいてある、人物画家としても巧かつたと云ふ評判を聞いて居る。此人の多くの作品の中には、柳の様な樹を沢山かいて居る、之が沢山見る中に余り同じ様な樹が沢山使つてあるので、少し単調の様な気もするけれど、樹の描き方、樹と空との関係、画面の穏かな調和などゝ云ふものは、独特のもので、後世の人が珍重するのは無理はない。
 同じ時代の人で能く人の知つて居る農家の状を主にかいたミレー(一八一四-一八七五)と云ふ人の画なぞは何れも人物が主でもあるけれども、人物の活動して居る野や畑や森や山なぞは、農家の生活状態を写したと同じ様に、周囲の風景を写して居る。バルビゾンに遊んだ人は知つて居ることであるが、バルビゾンの風景と人物とが、巧く出合つて居ると云ふことは、能くも斯う様に画いたものだと思ふ、一口に言へばつまらぬところを巧く絵にしてあつて、若し他の画家が、同じ画題に拠つて筆を執れば、自ら其画に引付けられて、其範囲を脱することが出来ぬ程である。ミレーは風景画の専門家ではないが、風景を有の侭に少しの誇張なく画いて、然かも其中に人物がよく生存して居る点に於て、又普通の風景画家と称する人に対して云ふても、又其画の中の風景のみを取つて見ても、立派な風景画家である。
 其後ち、風景に筆を染めるものが益々多くなつて印象派の画家なぞは、いづれも風景に妙を得た人が沢山ある、有名なモネー、それからシスレー、ピッサロ、ギヨーメなぞ、数え切れぬ程である。
 スエーデンのトウロウは、先年故人になつたが、河の流れとか、ちよつとした家の蔭なぞを流れる河とか、雪の景色とかを多く画いた風景画家で、水の動いて居る状や、水の透明或は半透明の趣なぞを非常に巧みに画いて、絵にいやみがなく、又無闇に緻密でもなく、粗でもなく、徒らに細工した跡も見えない、風景画家としては一流に上げらるべき人であらう。
 カザンは景色に人物を添へて画く人で、人物を主にした場合もある、穏やかな気持の画で、夕方、夕月の出る時分とか云ふ様な景色が多くて、夕方の趣が、巧く画かれて、柔い、気の鎮まるような、誠に心持のよい画である。
 ピュヴヰスド・シャ〓ンヌはデコラションの絵で、大家として知らぬ人はない、無論人物が主であるが、其風景には専門家も及ばぬ様な好い感じを現はして居る。ルクサンブールの美術館にある「哀れな漁師」と云ふ画は、船の上の漁師が、腕を組んだ様にして、濁つた水の面を見つめて居る図であるが、その水が沖の方へ流れ出て居る色合を見て、或風景画家などが、斯う云ふ色合は、まねることも出来ないと曰つたと云ふことを、或仏蘭西の大家の話したのを聞いたことがある。
 先づ大体に今日では昔の様に風景と人物とを別々に解釈をしないで、画を作ると云ふ点から、戸外に居る人物を画く場合には、風景画家でなくても充分に風景を研究して其人物を置くと云ふことになつて居る。一般に風景画と云ふものは、専門の風景画家のみならず、総ての画家から研究されてる為に非常に発達して居ると思はれる。
 巴里あたりへ留学する画家にも、時代々々で気持が違ふもので、我々の居た時には、今から二十年も前の事だが、まだミレーやコローあたりの感化が残つて居て、又印象派の初期の人々の感化もあつて、画家の生活に面白い気持があつた。巴里から三時間ばかりで、汽車で行けるグレーあたりの田舎へ往くと田舎宿屋で、家族的な、面白い、気の置けない、画家の集りで、昼は皆外へ出て、景色をかいて、夜は皆集つて話をしたり、画を評したりなぞして、愉快なものであつた。そして壁やら下見の板なぞには盛に落書きがしてある、中には当年の大家の筆の痕も少くない、或宿で私の教師の友人のコルモン氏が、宿の主婦と娘の肖像をかいたのがあつた、半身像で顔だけはすつかり画いてあつた。斯う云ふ例は甚だ多い、そんな所に面白い当時の気分が味はれる。(談、文責在記者)
  (「美術新報」12-10  大正2年8月7日)
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