黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎ヴェニス雑感

戻る
 私のヴェニスに行つたのは一九〇一年の二月の末頃でした、久米と佐野と三人で伊太利亜廻りをした時で、久米と佐野とはミラノの方から伊太利亜に入り、私は遅れて巴里を立つて、トリノから入つて、ピサ、羅馬、ナープルを見て、又羅馬に引返し、今度はオルビエト、シエナ、フロランスを見て、それからライン河畔を通る積りで、ヴェニスから独逸へ入つたのです。
 絵に就ての印象は羅馬にしろフロランスにしろ皆特徴があつて、仏蘭西のルーヴルで見て想像して居た伊太利亜諸派の画の感じが、実地に就て見ると大分異ふ。流石に大きなルーヴルも、仏蘭西以外の画、特に伊太利亜画派のものは真に僅かに一端を窺ふ位しかならない。それで伊太利亜で特に驚くのは極小額は兎も角、壁画の数の多いのと、構図の雄大なことなどは想像外である。
 それでヴェニスの特種の、即ちヴェニス派の絵に就ても、外の国で想像し居たものと大に趣が異ふ。同じ伊太利亜でも、外では見られぬ、矢張りヴェニスで見なければ、ヴェニス派の特長は見られぬ、ヴェニスに行つて、そんな感がした。ヴェニス派は伊太利亜の他の画派と比べて、予て本で読んだり、人の話で聞た通り、特徴があつて、特に色彩の豊富なる点に就ては、先づ伊太利亜画派中の最も著しい処である。
 ヴェニスの町と云ふのは、人の知つてる通り、島です。幾つもある小さな島の塊りと云ふものか、又一つの島に、幾つもの堀割をこしらへて、其堀割の間に橋を架けたと云ふ趣の処です。元来堀割ぢやないさうで、河の感があるけれど、海の水が島の間を通つて居るのです。
 ちよつと外の国とは異つた趣のある処で、建築の様式なども優美であつて、半分東洋的即ち土耳其式或は埃及式とか云ふものゝ加味された欧羅巴式と思はれる。町の状況の甚しく変つて居るには、島と島との間の水が往来であるのです。馬車と云ふものが一つもない、で、どこへ行くにも船で行くと云ふ風で、船では道が一番近い、徒歩の道は無論付いて居るが、島と島との橋を渡らねばならぬから、大分迂廻して行かねばならぬ。それで、土地不案内の外国人には大変不便の感がする。
 島全体を悉く見た訳ではないから、立派な事は言へぬが、私の通つた処では、土の顕はれた処を見ることが出来なかつた。皆人の通るべき処は総て石が敷きつめてある、それで裏家や貧乏人の住居は、内部や路次内は自ら不潔であらうが、唯往来人として通つた時は清潔の感がする、草の生へた処や塵溜のある処は見えないから。
 其代りに地面を踏むことになれた私共には、大きな船か、浮ドックの上に居る様な感がする、地盤の上に立つ安固の感じでない、無論之は私一個の感であらう。
 ヴェニスと云ふ処を絵で見、又人の書いた文章で見た時の心持は、多く夏の心持或は秋の心持であつて、空が晴れて、空気が透明で、光線が明るく、風の肌に触はる心持が何とも言へない、特に夜ゴンドラに乗つて水に浮べば人間の境遇と云ふものよりも寧ろ或は詩中の人物が、画中の人物になつて了ふ様な心持である。之が私の想像のヴェニスであつた。
 処が不幸にして、私の行つたのは、私の想像して居た季節でなくつて、其当時は細かい雨や霙が降つて寒かつた。船遊どころのシヤレでなく、私共は僅に有名な寺や画堂を見て、早々に切り上げて了つた。予て思つて居たヴェニスではなくて、残念であつたですが、それは私共が悪い時に行つたのであつて、今でも季節のよい時に行けば矢張り想像の通り愉快な処であらうと思つて居る。
 伊太利亜旅行に就ては、同行の久米が、お互に初めての旅行ではあるが、先づ案内の地位であつた、宿に着くと此土地でどこどこを見る、何時に汽車でどこへ往くと案内記を見て極めて呉れる、私共は殿様の様に、久米の案内に依つて見物した。
 或時美術学校を見に行つた、格別美術を研究する処ではない様だつた、名は稽古場みた様だが、立派な壁画があつて、博物館みた様な処であつた。見物を了へて渡場へ来ると、雪の沢山交つた雨が降つて居た。僅かの屋根のある船待場に待つて居た。偶然見当つたのは、十八九か二十歳足らずの女で、其側面は、色の調子から、形から、チシヤンの描いた婦人の形にそつくりだつた。そこで一方では、チシヤンなどの観察が洵に正しい、そしてあゝ云ふ人達の画が嘘でない、能く其時代の最も醇なるものを選んだと思つた、と同時に、其女が古い大家の筆に適はしい美人であると思つた。それで早速久米にも知らせて、大分近付いて其女を見た。すると女は肩から大な毛布見た様なショールを掛けて手には繃帯をして居た、霜焼けの崩れたのかと思つた、身分はどうしても下女以上にはいかぬ。頭髪は櫛目が見える様に綺麗に梳つて居る、処でさう云ふ若い女であるし、特にをかしな野蛮人が近付いて見たので、恥かしかつたか、気味が悪かつたか、側を向いた、顔が見えぬので頭を見ると、其櫛目の正しい髪に、虱の卵が沢山附いて居た。ヴェニスには、チシヤン時代と変らぬ美人が、今でも居るが、画の美人と実際の美人とは大変異ふ、態々近付いて見た感じがおかしな感になつた。ヴェニスに就て私は先づ其女を思ひ出す、女と同時に虱を思ひ出す、誠に好紀念で、虱が居なければそれ程でもなかつたのであらうけれど、虱が居た為に、十余年の今日も、今でも目に見る様な気持がする。
 ヴェニスに就ては歴史上興味のある事が沢山あるが、特に我日本に関係のあるのは彼の有名なマルコ・ポロの事である。マルコ・ポロはヴェニスの人で、支那に来て種々のものを持つて帰つて、其私邸を東洋博物館にして居たが、其頃ヴェニスはゼノアと戦争をして負けた、マルコ・ポロも軍艦に乗込んで軍に参加して居たので、ゼノアの方へ捕虜になつた、其幽囚中に東洋の談をしたのを筆記したのが有名な書物になつた、あの中には日本に就ても面白いことが沢山書いてあるが、今は述べる遑がない。
 現今ヴェニスで、最注意すべきものは、市主催の万国美術展覧会であつて、非常な成功を収めて居る。世界各国の第一流の大家の作品が集まるので、有益なものである、此展覧会は、今から十八年前、即ち一八九五年に、其第一回の展覧会を開いて、爾来引続き一年置きに開会して居る、最初はヴェニスの様な古美術品に富んで居る場所で、新作品の展覧会を開くのは愚の極だと云ふやうな、日本ででも起りさうな保守的非難の声が高かつたが、創立者たる、其当時の市長リカルド・セルウアチコ氏と代議士アントニオ・フラデレット氏との熱心な尽力で、遂に今日の成功を見るに至つた次第で、伊太利亜の新美術が、欧洲の他の国々と肩を並べる位になつたのは、無論此美術展覧会のお蔭だと言つても過言はあるまい。又、成功の一例を数字にして見れば、第一回から第七回までに、展覧会委員の手で売約した高が、三百四万三千五百九リラである。(談)
(「美術新報」11-10  大正元年8月10日)
©独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所