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◎洋画家の日本画観(其二)-各流各派特種の趣味あり

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▼私は日本画のあらゆる流派にも、あらゆる作家にも、それぞれ特殊の面白味を感じて居る、孰れの流派を好んで、孰れの流派を嫌ふと云ふことはない、雅なるものも、俗なるものも共に面白い。
▼昔から多くの人の佳いとしたものには、矢張り佳い処がある、古来名画と称せらるるものは、皆な面白い、併しそれ等は決して完全なものと云ふのではない。一方に非常に突き抜けて佳い所があると同時に、一方に欠点がある、完全と云ふことは、さほど面白いものではない。
▼日本画家を見るに、各其自分の流派に固執して殆んで他派の面白味を解しない様な傾がある様である、狩野派は狩野派だけ、土佐派は土佐派だけ南画は南画だけしか分らない、他の流派の面白味は分らない様である。
▼日本画の教へ方を見るに、単に形式ばかりを教へて居る、それで後学者は偏に形式を維れ守つて、一歩も他へ出づることを知らぬ。之に反して洋画の方では、生徒をして自ら自然から学ぶことを教へる、それであるから、自然に頭が練れて、眼が開く。
▼日本画を学ぶ人の為に、二三注意すべき点を挙ぐれば、先づ趣味を養ふことが肝要である、新らしい学問をして、新らしい智識を得、随つて新らしい趣味を養はなくてはいけない、新らしい趣味の人が筆を執れば、自ら新らしい趣味の画の出来るのは当然のことである。
▼又広く学ぶことが肝要である。美術に関したあらゆる学問を修めて、頭を養はねばならぬ。洋書をも読み洋画をも修むべし、併し洋画を学ぶには及ばぬ、但し洋画を理解し得るだけの頭脳を養ふことが必要である。
▼近頃日本画が迷つて居ると云ふものがある、迷ふと云ふのは、深く入らぬ為である、人間は万能のものでないから、各自は其選んだところに深く入る様に努めねばならぬ、深く入れば必ず得るところがある、必ず信ずるところが出来る、得る所あり、信ずる所があれば、迷はない。
▼本分を知ると云ふことが亦た大切である。譬へば帷子(記者の帷子を着せるを見て)は夏は涼しくて気持がよい、併しそれで洋服を作つては、皺がよつて、形はめちやめちやになるではないか、それぞれ本分を明らかにして、用途を誤らぬことが肝要である。日本画家も亦自ら其の本分を守り、其用途を考へて、其範囲を脱しない様にしなければならぬ。或洋画家は、洋画は日本間に適しないからと云つて、洋画で額や襖を画くことを試みて居るが、画いて画けないこともあるまいけれども、自ら用途を異にして居ることを弁へないものである。
▼要するに、新らしい智識を修養して、新らしい時勢を了解して行くと同時に、深く其自らが選んだところを研究して、自信を得、迷はず、惑はず、其本分を守り、其本領を曲げないで進むがよい。
▼深く究めて達する所あれば、政治家も、宗教家も、美術家も、皆な殆んど共通の妙境に到達するものである。一事一物に拘泥し、一流一派に偏傾するのは、未だ到らざるものであらう。
▼日本画家は頓と洋画の趣味を解しないのに、洋画家の中には、却て日本画の趣味を解する人の多いのは、一つは洋画家は先づ其頭脳を養ふて、趣味の眼を開くことを務めるのと、一つには相当に新時代の学問をして新時代の書籍を読み、新智識を得て、新時代の人であるからで、随て広く覧、広く味ふことが出来るのである。
▼殊に一般の人からは、洋画家には日本画は分るまいと思はれて居るのに、案外日本画が分るから不思議に感ぜられるのと、一方で日本画家には一向洋画が分らぬのに、洋画家には日本画が分るから、彼此対照して、一層不思議に見えるのである、恰もまだ物が分るまいと思つて居る幼童が、物を知つて居ると、人が驚いて神童などなど呼ぶ様な訳であらう。
▼併し洋画は、技術上又智識上、美術の基礎的の修養をなさしめて、其智能を開発することを専務とする。日本画の偏に一流一派の形式を注入するのとは、自ら其趣が異つて居る。
▼譬へば日本画の写生と云ふことは、洋画の写生とは、大変意味が違ふ。写生に依つて、自然を学ぶと云ふのではなくて、自然を自分の形式の方へ曲げて、引付けて来るのである、丁度我々洋画家が、何か下図をつける為に、自然物を自分の目的に都合のよい様に写す様なやり方である。日本画流の写生は、遂に何物をも自然から学ぶことは出来ない。
▼それで、前に洋画を学ぶに及ばぬと謂つたが、結局洋画を学ぶ方が賢いと云ふことになるかも知れぬ、根本的に美術的の眼孔を開く為めの修養法が進んで居るからである、いつまでも変な人間を画いて満足しては居られまいから。
▼美術の学問をするには、洋画の方が良い訳である。特に工芸などに応用するには、洋画の方が良い、形式よりも原理を了得せしめるからである。
▼之を医術に譬へて見れば洋画は内科の様なものである。日本画は耳鼻咽喉とか、腸胃とか云ふ専門各科の様なものである。日本画は、特に発達して高尚なる雅致がある様であるが、専門以外の事は分らない、洋画は卑近な様に思はれるが、広く一般に渉るから、各科を通じて大体の事は分る。若し更らに其広い内から進んで専門に入れば、偏狭な専門ばかりを学んだものよりは勝れることが出来るかも知れない。
▼家を建てるには、設計を日本在来の大工に頼むよりも、工学博士に頼む方が良い様なものである。工学博士は、純粋な日本室の細かい設計には適しないかも知れぬが、新智識と原理に精通して居るから、何処まで洋風を応用し、どこまで日本風を適用するかと云ふことは巧まいに違ひない。
▼画の方で謂ふて見れば、古い絵の無邪気な、とぼけたところが佳いからと言つて、今日の我々が徒らに其無邪気な形をまねても、それは却ていやみなものになつて了ふ。古画の長所を学ぶと云つても、無闇に形式ばかり摸倣してもつまらぬ。先づ如何なる形式は、如何なる趣味と調和するか、如何にして、古画の長所を、我々現代の趣味と、適応せしめ得るかと云ふことを研究しなくてはならぬ。
▼油絵は、或人達の云ふ様に寧ろ俗なものかも知れない、併し之を遣り通して行けば、自ら雅致も生ずるのである。
▼浮世絵なども、其当時にあつては、俗なものであつたかも知れぬが、今日から之を見れば面白い或は今日の日本画家の画いているものも、後日になつて見れば、自ら雅致を生ずるかも知れぬ。
▼私は雅なものも、俗なものも共にそれぞれ面白い。浮世絵も、線や、色や、又風俗を見る上からも面白い、先達つて博物館の浮世絵展覧会に出て居た、狩野長信の屏風などは、真面目な形の写し方や落付いた彩色、勿論時代の助けもあるであらうが、面白いものだと思つた。
▼雪舟は線に真面目な、無邪気な所があつて面白い、大雅や蕪村は稍無邪気を衒つた傾があるかと思はれるところがある。
▼狭い範囲を限つて、其以外のものを排斥するのはつまらぬことと思ふ。各流各派、各時代、各作家それぞれ特種の面白味がある。それぞれ其特種の趣味を見分けて、之を楽むがよいと思ふ。
  (「美術新報」10-12  明治44年10月)
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