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◎巴里の冬の夜

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過ぎ去つた事を想ひ起すといふものは実に一種の興味のあるものである、老人が其青年時代を慕ひ又年末になつて一年中に起つた事をいろいろ考へて見るなど皆是れは飯の後で茶を一杯飲むやうなもので何にもならないやうな所に自ら味ひが有る。
 僕の留学生時代も段々と昔の事と為つて行く、独りストーヴの前で巴里の紀念の煙管でマリラン煙草をふかして過去を顧る。
 何と云つても愉快なのは学生の時だ、丁度風船球のやうなもので只フアリフアリと向上の気に満たされて居るのだからいやな事は一切下界の事と見捨て面白く日を送つた。
 だが寒かつたよ巴里の冬の夜は、部屋にストーヴは附いて居ても炭を充分焼くと却つて懐が冷えるから寝台の上の蒲団(エドルドン)を下ろして足に捲き着け頭から外套を引被つてランプに向つて五銭(二十五サンチーム)で買つて来たウヰルジルでも読む。
 すると心持丈は南欧の日当りのいゝ処で無邪気な牧童等と橄欖樹の陰にねころんで居るやうなものゝ実際は寒さが全く骨髄に徹つて、何となく睡気がさして来る。これではならぬと勇気を皷して六階から下りて外へ出る。直ぐ向側に栗を焼いて居るから其れを三銭程買つて外套のカクシに入れる。忽ち後ろにシヨウシヨウマロン、シヨウシヨウと高調子に歌ふ女がある。一寸焼栗屋の方を見て行き過ぎ二三の煙筒帽の書生に打ち混つて景気よく何かしやべりながら珈琲店へ這入る。内では待ち構へて居たやうにアー、チ・ヤン、ウヰーヴ、ツ・ウヰワラ、ガルソン、アンボックなどと云ふ声が一時に外へ聞える。
 スーフロー町の角から右へ折れてサン・ミッシェル通にかゝると俄に賑やかだ此処は流石に書生町の中心で各国各種の書生が仏国名産の美人と入り混つてドヤドヤ歩いて居る。
 クリュニー古物館の角から左へサンジェルマン通へ曲り、陸軍省の方へ向つて行き、又右へサンペール町を下つてカルーゼル橋を渡りルーヴル美術館の中庭へ這入る。
 夜も早十一時過で此の辺は人通も少ない、時々オデオンバチニヨルの乗合馬車が敷石の上を非常な響をさせて通り抜ける。
 オペラ通に来ると趣が一変する、吾々の書生町に比ぶれば先づ銭に譬へて確かにビタ銭と銀貨との差がある。ビタは平民的で一寸雅致があるが銀の方は紳士的で上品で堂々たる所なきにしもあらずだが其代りに何となく冷めたい。  右側に在る香水見世の立派な陳列などを覗き込んでウカウカとグラントペラ劇場の前に出る。
 此処を左から右へ一文字に突き抜いて居る大道が即ち巴里の銀座で此節期の賑ひは又格別なものだ。
 グランブルヴァールの大道は全く目貫の場所だから平日でも至て繁華であるが、其上車道を後ろにして両側の人道へ向つて無数の板小屋を建て列べて、種々雑多な物を売る。是れは毎年十二月の二十五日頃から大晦日までの事だ。其れは其れは色々な品物がある、菓子、玩弄物、石版絵、名刺の印刷、靴の紐まで何んでも御座れだ。但し東京の年の市のやうにしめかざりとか松とか裏白とかいふやうな儀式用の極まつた者は無い。そうして大抵は皆安物のつまらないもので一個十銭か二十銭位の品が多い。又板小屋の見世を出して居る者の外にドウマ声を張り上げて立ち売をして居る者も尠なくない。何年頃の事であつたか今は能く記憶しないが、長さ一寸許の長方形の鋳物の箱のやうなものに護謨の短かい紐が付いて居て、其紐を引くとグヰーといふ大きないやな音が出る、其れをクリ・ド・マベルメール(吾が姑の叫)と名づけて、盛んに売つて居た。此れが大当りで其時には市中で何処でもグヰグヰグヰーとやかましい事であつた。
 又往来で人の足許に小さい造り物の狗をピヨコンピヨコンと躍らして来る奴もある。此れは狗から護謨の長い管が出て居て其先きに球があるのを握つて躍らせるのだ新聞で見ると昨年の暮に一番流行したのは鳥の巣で、カラクリの力で鳥の児が頚を延ばし嘴を開いて鳴き立てるのであつたそうだ。先づ斯様な類の云はば新発明の珍らしいと思はせるやうな品物が売品の大部分を占めて居る。
 此年暮近くの市に現はれる商人は、二万人の上で小屋の数が三千からだ。其他荷車の体に為つて居て菓物を売るのが三四百台もある。是等の商人はつまり東京の縁日商人で巴里でカムロと名づける。此時分には本職のカムロ計でなく職人が臨時にカムロになるのも多い。
 総てカムロの売る品物の仕入値は実にビツクリする程安いもので、ダースで二三十銭位のものだ。懐中活動写真と云ふのが百個で十フランする。卸屋の目録で見ると新案玩弄物が六百種近くも書いてある。数年前までは機械的なのなどは大概独逸で拵へたのだが、近頃では仏国に一の組合が出来て、懸賞で盛に新規の製造を奨励して居る。此組合の会員は五六百名もあるそうだ。
 カムロの生活は至て簡単である。全く其日暮しで、雨雪病気などで直に困る。カムロの中で最も下等なのは新聞や流行歌などの印刷物を売り歩く奴で、先づ往来の人にすがるか友達に相談して、二銭の資本を手に入れると其れで新聞を五枚仕入れ、一枚を一銭づゝに売る。其処で五銭になるから今度は十二枚仕入れる。マア斯様な風だ。そうして彼等の一日の生活費は宿賃に五六銭、食物と靴とで又其位かゝる。是で足りるのだから金の八九十銭か一円位も有れば金満家の様なものだ。何しろ靴といふ奴はカムロに取つては誠に大切な代物であるが、サテ其れには特別な機関が備つて居る。貧乏侯爵家困窮男爵家御用といふ面白い看板のエルネストといふ靴屋は、カムロ相手の専門家で、カムロは皆此店で彼等の資本の一なる靴を買ふことゝなつて居る。靴は勿論古靴で、一足二銭以上五六十銭迄で、二十銭位もするのは大分上等の口だ。エルネストは職人の七八人も抱へて居て盛んに製造して居る。
 カムロの中には教育の有るものも混じつて居る。中学卒業程度の者などはちらほら見える。又胆力や能弁で随分名高く為つて、カムロ仲間の親分のやうに立てられて得意に生活して居る者もある。兎に角出鱈目な事をしやべり散らし、人を集めて安物を売り飛ばすと云ふ迄になればシメたもんで、もう全く一人前のカムロだ。
 色々見ながら又色々人生の事などを考へながら、此の賑やかな流石に長いグランブルヴァールを通つてセバストポール通の辻に来た。
 此通になるともう大分淋しい、夫れに此処には市が出て居ないから只普通の瓦斯燈計でなんとなく薄暗い。
 でも随分人通りはある。女工らしい小意気な若い女連が此の耳の切れそうな夜風をものともせず、何か笑ひ話をしながらぶらぶら帰つて行くのもあれば、カスケットを目深に冠り、瓦斯燈の陰から不意に現はれて、グヰグヰと例の姑を鳴かして通り過る呑気者も有る。
 どうしても巴里は陽気な処だ寒さ暑さに係はらずいつでも此陽気な分子が此都の空気中に含まれて居るのは真に不思議である。(三十九年十二月稿)
(「光風」4-1  明治41年6月)
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