黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎サロンの話

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巴里での二月三月といふ月は、画工に取つては馬鹿に忙しい月である。毎年此頃になると、留学中の事を思ひ出して、十年後の今日でも、此時期に、内外の雑務に追ひ廻はされて、碌々仕事の出来ないのは、何となく心苦しいのだ。元来忙しいのを慕はしく感ずるのは人情ではあるまいが、其れがさ、其処に種が有る、サロンと云ふ奴が控へて居るのだ。
 巴里に居た者は、此のサロンなるものが、どの位景気のいゝ盛なものだと云ふことを知らぬ者は無い、然し画工に取つては、また格別な感を与へる。実にサロンと云へば、先づ画工の生命と云つてもいゝ位である。此頃は、日本でも、たまに新聞雑誌などにサロンと云ふ言葉が見えるやうだから、今少し許り、僕の知つて居るサロンの事を話して見やうと思ふが、サテ話をして見やうとすれば、全身の血液が忽ち頭に登つて目の玉が熱を持つたやうになり、考へが纒らなくなつて、何から話していゝか分らぬ。是れは虚言でもなんでもない、僕に取つては、絵画に就ては勿論、巴里全体のいい側の事、即ち巴里の華美隆盛なる側などが、皆一ッのサロンに集まつて来るのだ。だから仕方がない、順序も何も無く出鱈目に話して見やう。
 サロンに画を出すのは、百姓の収穫と同じやうで、一年中の大事業である。最も大家には何んでもない事には相違ないが、中以下の画工の身に取つては、実にたいしたことだ。大抵出品の受付が三月の十五日から二十日までゞ、一人で各種の絵画を二点づつ出品することが出来る。例へば油絵が二枚、水彩画が二枚といふやうなものだ。右の出品と云ふのは、只提出するといふ丈の事で、提出した画は、総てサロンに陳列されるかと云ふのに、なかなかそう甘くは行かぬ。オール・コンクールと云つて、審査に及ばずと云ふ立派な資格を得た人の外は、皆厳重な審査を受けて、始めて陳列さるゝ次第であるから、苦心して漸く拵へ上げたものを、一枚なり二枚なり此審査に持ち出して、及落の決定するまでの心配は、全く御話にならない。
 出品する時には、自分で持つて行く者もあるが、大抵は額縁屋に頼んで運び込んで貰ふのだ。額縁屋には、前以て出品目録が廻はつて居て、其れに画題や額面の寸法は勿論、筆者の住所、姓名、国籍、出生の年月、及び地名、教師の姓名、受賞の有無等を書き入れ、記名して渡すのである。凡そ一ケ月程して、及落の通知が来る、及第の時は白い紙の手紙で、落第は青だから、此の青紙は大に嫌はれるが、然しどうしても此の青の方が舞ひ込み易い。僕も二三枚頂戴したよ。
 偖ていよいよ白紙を受け取つたと来れば、たいしたもので、雑誌社からは複写を許して呉れろなどと云てよこすし、学校に面を出せば友達がもて囃すし、教師の握手にも力が入ると云ふやうな訳で、得意千万、全く天へも登る心地がするのだ、誠にケチ臭ひ話だが実際だ。
 審査に就ては、先づ六十名の審査員が選挙されて、其任期は三ケ年である。そうして其六十名の中、二十名代りで毎年出品の審査をする。又授賞の審査は、六十名全体でやるのだが、名誉賞丈は、会員中の或る一つの褒美を得た事のある者が、総掛りで投票する事に為つて居る。
 サロンは、通例五月の一日から、六月一杯開かれるのだが、其普通公衆に見せる前に、一日ウェルニスサージュと云ふ日がある、是れが何より大切な日だ。全体ウェルニスサージュと云へば、画面に艶油を塗布する事を意味するのではあるが、其れは幾んど名のみで、今ではいくらか陳列の整理などはやるけれども、大体は特別上等の御客を接待する日に為つて居る。頃は四五月と来て、実に此の季節は、巴里では何とも云はれぬいゝ時候で、余寒は既に遠く去つて、暑さと云ふ暑さは未だ来ず、マロニエー樹の葉は出揃つて、其新緑の色は、湖水の深みに日光の差したやうだとでも云はふか、透明した緑の加減は、全く画にもかけない位、夫れにリラやミユゲなど、色々な花の仕業か知らぬが、なま暖いやうな一種の香気が世間に満ちて、慷慨悲憤或は厭世的の吾々でさへも、いかにも生きて居ることの愉快を感ずる。
 ウェルニスサージュには、文部大臣や美術局長は無論の事、大統領其他貴顕紳士が、やつて来るのだから、其賑ひは話にならない。其れに亦婦人連が皆着飾つて押し掛けると云ふ始末、実に此日には新調の夏服を用ゐるのが、例のやうになつて居るのだから、眩ゆき計の出で立である。此の日の入場料は一人前十フランで、出品人には特別切符の附いた入場券を呉れる。其特別切符で、午前に一人、午後に一人、都合二人丈は連れて這入る事が出来る。僕が初めて此のウェルニスサージュを見たのは、確か一八九〇年で、同窓の米国人グリッフヰんが目出度及第して、其男に連れられて行つた。其翌年には、今度は僕の方が運が好かつたから、僕が案内者に為つた。其頃には、シヤンゼリゼ街を凱旋門へ向つて上ると、左側に工業館といふのが在つて、其処でサロンを開いたのであつたが、此巴里のはでやかな群集の中に打ち混つて、何某と云ふ大家に紹介されたり、又有名な人達と並んで名画の前に立つなどと来ては、自然に陽気になつて来る。又それに引替へて自分の作品の前に出た時は、其羞かしさと云ふものは、何ともたとへ様がない。立派なもの揃ひの中で、其拙く見えること、只赤面の外はないのだ。
 兎に角此日は美術家に取つては一年中の晴れの日であるから、僕等如き者までも、シルクハットと云ふ有様、殊に羨ましいのは大家連で、大抵此日の昼飯は、隣のルドワイヤンでやると云ふことだ。話に聞くのに、何んでも桃一つ丈でも三フランか四フランもするさうだ、一寸見た所では、何んだか薩張つまらない料理屋のやうだつたが、僕等はそんな処は覗いた事さへもない。サロンは、毎日朝の八時から夕の六時まで開いて居るが、月曜日丈は朝の十時でなければ開けない。又入場料は、ウェルニスサージュの日は、先づ特別として、其次の日即ち開会の第一日丈は、午前中二フランで、午後は平日と同じく一フラン、又毎日曜日の午後は、平日の半額で、五十サンチームだ。此日は雑踏して兎てもゆつくり見物することは出来ぬ。
 褒美の種類は、名誉賞牌以下一二三等と褒状で、二等賞以上の者が、オール・コンクールと云ふ位置を得て、審査なしに出品するやうな特権を授けられる。又画家の伎倆に応じて、政府から他の職業の人と同じやうに、勲章も呉れるのである。此の外に文部省だの、アカデミー・デ・ボーザールから呉れるところの奨励資金の種類は無数である。  抑もサロンは、仏国の美術家の組織して居る奨励会の一つの事業で、其起源は随分古い、一六七三年我延宝元年である。去る一九〇〇年の大博覧会の時に、宏大な美術館が建築されたので、今では其処で、毎年サロンを開く事になつて居る。又一八八九年の大博覧会の後に、美術家が二た組に別れて、サロンも二つ開かれる事に為つた。其新サロンは博覧会跡、即ちシヤン・ド・マルス(陸軍大学校前の練兵場)でやつたから、シヤン・ド・マルスのサロンと称へた。然し此のサロンも、一九〇〇年後は矢張旧サロンと同じく新築の美術館を使用して居る、つまり一の美術館を半分づつ使ふのである。旧の方はアレキサンドル三世街より入り、新の方はダンタン街の側である。
 新サロンの開けるのは、大抵いつも四月の中旬で、旧サロンより半月計り早いけれども、矢張六月一杯は開いて居る。又ウェルニスサージュをやることだの、入場料や時間などは旧サロンと大同小異であるが、甚しく異なつて居るやうに見えることが二つある。第一一人で沢山の作品を出して居ること、第二褒美が付かないこと、是れ丈けは誰でも気が付くのだ。元来旧の方では、前に云つた通り、どんな大家でも一人で二点と極まつて居るのだが、新の方では六点まで許してある。それから褒美の方は、旧のやうに一等とか二等とか云ふ賞牌は呉れないが、其代りに、正会員准会員と云ふものに推挙されることになるのだから、褒美の名称が変つて居るまでのことであると見ていゝ。ソシエテール即ち正会員は、旧のオール・コンクールに相当するのだから、固より審査無しに六点丈列べる権利がある。准と名づけたアッソシエは、先づ三等賞位の所だが、半分はオール・コンクールの性質がある。それは六点の内、自分で此れと思つたのに貼札をして出せば、其一点丈は、特に審査無しで陳列される。
 出品の鑑別、其他の事務に就ては、皆正会員が抽籤で委員に為つて働く。又右の正准会員の外に、創立員名誉会員などゝ云ふものもある。
 サロンは、何れも美術家の団体の事業の一つと云ふに過ぎないが、先づ樹に譬へて見れば、花で、此の花が毎年いかにも立派に咲き乱れるのには感服する。
 一八九〇年に新団体の組織が成つて、メイソニエと云ふ人を推して会頭にしたが、此人が歿してピュビス・ド・シヤウァンヌが代り、又ピュビスが亡くなつて、今のカロリュス・ヂュラン氏が挙げられた。
 両サロンに陳列する美術品の種類は、所謂純正美術なる絵画や、彫刻物、建築図は勿論、美術工芸品と云ふやうなものまでも含まれる。
 サロンが仏国に取つて有益なのは云ふまでもないが、外国の為め、即ち世界の為めにも、非常に役に立つて居る事は疑ふ可からざる事実である。故に日本でも、是非かう云ふやうなものゝ設立されんことを切に希望するのだ。仏国でも以前は全く政府の力に依つたものであるから、日本でもイヤ日本では猶更、政府で計画して充分にやつて貰ひ度いのだ。仏国の美術が、今日のやうにすばらしいものに為つたのは、決して偶然ではない。
   (「光風」2-2  明治39年1月)
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