黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎蹄の痕所収書簡(一)~(九)

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明治二十七年
  十一月十日 広島市停車場前鶴水館より
  東京・久米桂一郎宛
 来て見ると大分調子が違ふわい第三軍の出陣は未だ何日頃の事になるかちつとも知れず知れる迄は少なくも一ケ月位は掛る夫れまではぶらりとして居らなければならぬだが幸に此辺は景色が中々いゝ田舎では今切りに稲の穂などをこいだりなんかして居て面白い殊に尾の道と云処から此方の景色がいゝ昨夜不図Bigot〔ビゴー〕に出遇つた丁度隣の旅篭屋に夫婦で宿つて居るいい話相手だ
  十一月十七日 広島より
  京都・中村勝治郎宛
 十五日附の委しき手紙を今読だ今度は不思議に行違ひ今と為ては奈何とも致方なし只残念だと云の外別に考も言葉も出ず君の説の如く此処にぶらぶらして暮して居るよりも京都へ出て行く方が僕の身に取て至極妙なれど用事なく京都に居ると云ては只遊と計に思はれ夫れに何時従軍の事が極るやも計られず其時直に頭を出し得ぬ様にては面目なし僕が戦地へ向ふと云事に為たは従軍して戦の状を写す為とは云ものゝ其実は只世間に対する僕一人の義務と云所が第一の処だ全体画工は善い画さへかけば其外には何の務も無い様なものなれど画などは無用に近きものゝ様に思はれ居る今日そんな物を云草にして引込で居るは命が惜いものとしきや聞えずつまらない命を大層らしく思て居る様に思はれては甚だ迷惑ではないか何しろ僕は自分のする丈の事をして置けばいゝのだ夫故態々此処迄出て来て命令を待て居る次第なり愈々戦地へ出るか出ぬかは僕の知た事ぢやない僕の体は進上して有るのだ
  十一月十九日 厳島紅葉谷より
  東京・久米桂一郎宛
 此の宮島の紅葉谷と云処は実にいい処だぜ名計でなく本当の紅葉谷だ鹿も時々出て来る先づ京都にたとへて云て見やうなら通天橋の処をひねくつて大な岩をあつちこつちに出し夫れに若王子見た様に茶屋がぽつぽつ有つて其茶屋に人がとまるのだからしやれてる昨晩暗くなりかゝつて此処に着いてサテ今朝となつて真に紅葉谷の妙が現はれた先づ第一に面を庭先のフォンテーヌで洗ふのだ此処は是非見て置くべき処だ今日は少しクロッキーをやらうと思ふ明日か明後日に広島へ引返へす
  十一月二十四日 広島より
  東京・久米桂一郎宛
 今夜の旅順のNouvellesは真に愉快ぢやないか之れで己様の運命がいよいよ定まるのだ三四日の内には大抵どうにか片着くだらうと思ふ今日木村虎吉が歌麿の錦絵の非常にいゝのを五六枚持て来て見せたが其内一枚ほしくてたまらないのが有るので困つた
  十一月二十八日 広島より
  東京・久米桂一郎宛
 昨日大本営で第二軍への許可を得た今朝これから宇品の運輸通信長官部とか云処に行て乗船を極めて貰ふのだ余程世の中がまじめに為て来たよ残念なのは友達が居ず別れと為て酒飲などして面白くやる事が出来ないのだ厳島の水絵は合田へ送て置く己がいきついたら皆への記念物と思へ
  十一月三十日 門司港豊橋丸より
  東京・久米桂一郎宛
 とうとう立つた仕合の事には宮様と同船で上等と来て居るからすばらしいものさナンダ戦に行心地ぢやねへ丸で洋行よアヽ最後にこんな難有目に逢へば先づ本望だナアそうぢやねへか昨日立つ時にはBigot木村等が宇品の波止場迄見送て呉れた本船に乗り込む時も小蒸汽船と来てなかなかしやれて居た船は昨日の三時に出帆して今朝門司に着た此処で石炭を積込だり人夫を乗せたりするので明朝の八時頃迄は泊る事と為つた其お蔭で手紙が出せる戦地からは中々手紙も出せぬと云事だから度々いつもの馬鹿噺を書てやる事が出来なくなるかも知れない送て呉れたロマンや水絵の筆は丁度立つ朝届いた実にいゝ都合さBigotがSociete des Berretsとか何とか云名で四五人寄つて小な会を拵へ展覧会でも開いたら面白からうなんて云て居た何れ逢つたら何とか云話が出るだらう奴も美術家がもうちつと一緒に為つて仕事をするやうに有りたいと云考を起して居るらしい皆へ宜く杉、合田、Tronquois、田中、菊地、佐野、吉岡等
明治二十八年
  一月十四日 金州より
  東京・久米桂一郎、合田清両名宛
 広島に居た時に知合に為た長郷泰輔と云人が此処にやつて来て又明日帰るので画を頼で送る日の当つて居る景色画は己の極得意なのだから其積で見て呉れ此の金州を立つて山東の方へ向ふのは二十日前後になるだらうと思ふ毎度云て遣る通り随分いゝ景色の処が多いけれども寒さが強いので外で写生する事が六ケ敷い今度送る城外の晩景を画く時には山本と一緒に出懸たがかいて居る内に水は勿論絵の具も凍つて仕舞つてよわつた山東の方は雪が沢山積で居ると云話だ其雪の中を行軍するのは余り楽ではなからうと思ふだが寒さの点は却て此処程ぢやあるまい此処では手足の指の落ると云迄には行かないが此より北に進んだ隊の中には手足が腐れて役に立たなく為つた人も多くあるそうだ山本は毎日面白い事をしやべつて賑やかにやつて居る
  三月二十八日 京都より
  東京・久米桂一郎、合田清両名宛
 オレの裸体画で議論が大層やかましく為り余程面白い警官などが来て観ると云騒ぎよ孰れ今明日の中には何とか云てよこすだらうと思ふいよいよ裸の画を陳列する事を許さぬと云事になれば以来日本人には人間の形を研究するなと云渡す様なものだから全く考へもんだ就ては審査総長がどう云裁判をするか知らんいよいよ拒絶と来ればオレは直に辞職して仕舞ふ迄だどう考へても裸体画を春画と見做す理屈が何処に有る世界普通のエステチックは勿論日本の美術の将来に取つても裸体画の悪いと云事は決してない悪いどころか必要なのだ大に奨励す可きだ始終骨無し人形計かいて居ていつ迄も美術国だと云つて居られるかつまり此画を攻撃する者の説と云のは只見慣れないから変だ画も何も分らぬ百姓共が見て何と思ふだらうかなどと云のだ馬鹿の話さ一体美術と云ものは何の為めだ誰の為めだいつの代でもどこの国でも盲者を当に眼鏡を造る奴は有るまい明めくら共に見せる為の美術ぢやあるまいだから今多数のお先真暗連が何とぬかそうと構つた事は無い道理上オレが勝だよ兎も角オレはあの画と進退を共にする覚悟だ
  五月九日 京都より
  東京・久米桂一郎宛
 手前の手紙を読みながら不図思ひ出したのは何処だと云のにアノVogesのRud-Linよどうだ今考て見るといゝぢやないか己はもうあすこに引込で一生を送つてもいゝや手前はどうだ一生の事に付てはどんな考を起して居るか○今京都は随分混雑しては居るけれども何もたいしたことはない○己は未だ何処へも写生に出懸けない二三日前に下加茂上加茂から紫野の大徳寺へ廻はつて見たが中中よかつただが写生に出懸けるには相手が無いとだめだ手前なぜ来ないのか己の内に来ればいゝぢやないか今己が借りて居る家の庭先の草原はModeleを置てかくのには妙だPlein airをやつて見る気はないか○己の審査官も六月の二十日頃迄の事だらうと思ふがそれが済めば後は西へでも東へでも出懸る事が出来る又旅をやめて此処で舞子でも雇て例の清閑寺をかくことゝ仕様か
  十一月三日 奈良より
  東京・久米桂一郎宛
 一昨晩から奈良に来て居る今度は杉竹のパゝに逢さへすればいゝのだから逢た後は直に京都へ引返していゝのだけど中村が是非来ると云たから奴を待ちつゝ寺廻りを始めた成程人が大騒ぎする程あつて随分面白いものが沢山有る然し美術品などと云ものは見て居る時は此れはいゝナと思つても丁度芸者の面を列べて見て帰つた時と同じ事で後になつては只ぼんやりとした感が残る丈でいつ思ひ出しても愉快だと云様な事は更に無いのだ夫れだから全くの美術品丈では奈良の旅も一向つまらないのだナント手前もそう考るだらう此の前の奈良の旅は矢張今度の様に一人旅で可笑しい馬鹿気た話を土産にしたが今度の土産は余程種類が変つて居る悲しい様な中に難有い拝み度い様な感を加へ又其れになまぬくい日の当つたいゝ心持を混ぜたのだマア聴て呉れ昨日昼飯を食つてから西大寺と云のを見に行た其寺は奈良の町から半里も有る田舎で田舎車を車で行のはよつぽどよかつた道端には青い色の野菊の様な小さな花などが咲て居て右も左も一面に稲が黄ろく為て居りうねうね曲つた道の先き方には土壁の田舎家が見え其ズーツと向ふには少し紫掛つた青い山が有りと来て居るのだそれにたまらないのは此の秋の日の当り心地だ車挽が走るのでつめたい風が面に当つて少しひやひやこう云心持は既にブレハ島か何処かで感じた事の有る心持だこう為つて来ると景色を見てももう画にすると云気で見るのぢやない画と云事は忘れて消えて只心持丈のこる眼をねむつたり開いたり車の上にゆらゆらして行く軈て西大寺の見物を済まして帰り途と為たが奈良と西大寺との間で今一つ見物する処が有ると車挽が云ので其処に車を停めさした寺が一つ有つて法華寺と云ひ其近辺に百姓家が少しかたまつて居て小さな村を成して居れど丸で支那の山東省辺の村落の様に先づ木で云はゞ枯木のざまで何となく哀れに見える法華寺も同様で極つまらない寺だ実は其寺の由来を丸つきり知らないもんだから心の内ではナアァンだこんな寺は見ても見なくつてもいゝやと思つた先づこんな気合で這入りタノームとやつて見ると出て来たのは六十余の尼だ其処で始めて此寺は尼寺だと云事が解つたこいつは悪い事をしたと一寸考たが只此侭だまつて帰る訳にも行かないから断はられて引取ることを当て込で御堂を拝見致度いもんで御座いますがとやつて見ると実に案外な返辞を得た直に座敷へ通れと云次第で夫れから御堂の開扉と云命令が下り暫らしくて御堂に入れて呉れた見ると仏壇の正面に白い着物の上に黒の法衣を被た年の頃六十五六とも見える小薩張とした尼さんが鉦を鼓きながら何とかソアカ何とかソアカとしきりに御念仏を上げて居る是れは全く開扉に付て仏様に其由を申上た様な次第と察せられる此念仏は長い事は無かつた夫れから其尼さんが立つて案内して色々口釈して呉れた此の堂は外から見ると極しみつたれたけちな堂だが中に這入て見ると流石に堂守が女丈に他の古寺と違つて掃除が行届いて居て奇麗だ高草履をはいて歩くなどと云必要は無い最も憐に思はれたのは此れは一つにならつしやる太子様だとか又二つにならつしやるのだとか云て子供の形の木像に着物が被せて飾つて有るのだ彫刻物の内では運慶の作だと云四天王も有るが此等は維摩の坐像には兎ても及ばない維摩は実によく出来て居る足の形などはグラヂアトールの足に能く似た出来だと一と通り見物して座敷へもどり四方山の話に移た此の寺では庵主が代々近衛様から来られる例だと云事又此の前の庵主さんは自分で育て上げ三十五歳になられる時肺病とかでなくなられた夫れが今より四年前の事で其時の事を想ひ出すと胸が痛うなる併し幸に此春から新に庵主が出来たので其御養育彼れ是れに気がまぎれていゝなどゝ黒法衣の尼さんが語つた其当主と云のは何条様とかの御生れで今年九歳誠に御機嫌克此寺に来られてから一度も御病気もなく御暮らしの由こんな話を聴て己の心の内には色々な考が起つた不自由の無い家に生れて居て何も分らない内にこう云処に押込められ歌つたり笑つたりする頃が来ても只ソアカソアカと云て鉦を敲いて暮らさねばならぬと云のは随分因果な話サテ世の中の親達と云ものは不思議な権力を持て居るものだナアなど考え少し腹立の気味に為た所で黒法衣の尼婆さんが其九歳の庵主さんにあはしてやると云て間もなく襖の後に子供の足音がして椽先から座敷に入て来られて己に向つて至極叮嚀に礼をされた見ると至て活き活きした顔付で稚児髷と云髷か知らん絵にかいて有る牛若丸と云風に髪を結て着物は地が赤で梅の花の様な模様を白く抜いて有り帯も赤だ頭の円い人達の中に此姿は此人の不幸を一層強く己に感じさしたのだ手前等が己に心持と字を付けたが大抵己の心持は畜生め侭よと云心持に為るのだが今度は不思議な今迄に余り無い心持に為た何んだか涙が出そうに為て来たナント是れは真に不思議だらう若しヒヨツト涙でも出上つたら余り馬鹿々々しいから長居は無用と思ひ直に暇乞して寺を出た本堂の脇から門の方へ曲らうとする角の処で後を振向くと玄関の板敷の上に其御娘様が己を見送て出られた侭少し横向に為つて立つて居られた其御姿は非常に丈も高く兎ても尋常の子供とは見えず…… 門の外へ出たら前には哀れにきたならしく思つた村が夕日に照されて総て金色を含みアア斯様な処で静かに一生を送つたならばと考た--だが何だねへ此の娘さんはこんな寺に入れられたのが或は一生の仕合なのかも知れないアノ女学校からぞろぞろ出て来る娘つ子達の中には此児位に奇麗な人は幾十人有るか分らないが只羽色の美しい小鳥の様な感を起させる位な所が精々だ夫れに引換へ此の法華寺の娘さんは丈は拝み度い様な心地を起さしたアノ最後に一と目見た時の現象は実に不思議だつたよ本当にあんなに見えたのだから全く不思議だ是れが今度の奈良土産だ明日は法隆寺を見て京都へ帰る中村はとうとう来ないと云てよこした
明治二十九年
  四月二十五日 東京より
  京都・中村勝治郎宛
 昨夜日本橋の或る茶屋から今東京で謳つて居る歌を一つ二つ書いて遣つたが歌のことだから文句丈ではさつぱり面白く無い威海衛と云ふやつなどには一種のぶるぶるする様な節があるので変な感を与へるこれは歌のこと散財の主意は或る友達に御馳走にばかりなつて居るのでゆふべ丈はオレが引受けるとりきんで見たのさ(これからさきが面白い)芸者も二三人呼で呉れ花はこのうちからやつて呉れと云てたつた一枚持つて居る十円札を其茶屋のおかみさんに渡したらうと思へそうすると出品が段々あつた僕の友達は毎日程其茶屋に行て居るので皆奴の知つて居る女共だ知つて居ると云ふ計でなく出品の中にはおなじみも居るのさ外に男の客も二人あつて何れも歌などうたひ得る連中出品の数も次第に増して十時過る頃には非常に賑やかに為つて来た僕も皆の騒ぐのを見て居る内差して来る盃を受けて居る内に酔が廻はつて来たアヽ一番今夜は根津の神泉亭に泊りに行てやらうと云ふ考を起した一時頃に日本橋から根津にやつて来てまんまと泊り込んだのはよかつたが持つて居た丈の金は先の内の女に渡してしまつたので一文無しだどうして此の神泉亭の払を済まして内へ帰るかと云ふのが今朝の一問題だ
  五月十一日夜 東京より
  京都・中村勝治郎宛
 宇治からの端書も京都へ帰つてからの手紙もたしかに受取つた新茶は誠にありがたう明日は是非受取に遣らうと思つて居る母に新茶が来たと云ふことを話したら大層喜んだ受取つたら直に久米へも一つ送つてやる宇治はどうだいよかつたか例の如く沢山スケツチでもやつたか
 段々と東京と京都とを比較して考へて見ると人間一生の中東京に居るのと京都に居るのとは非常に幸不幸が有るやうだ東京に居るとをかしく気が苦しい様だ先づ心持の上から云へば法律の稽古と画の修業位の違ひは有る東京の法律学校のやうな心地の所に居てはどうせいゝ画なんか描けない此頃はお互に暫らく便をしなかつた僕の方の今月になつてからの出来事は衆議院書記官長の肖像を描き始めた丈だ
  五月二十二日夜 東京より
  京都・中村勝治郎宛
 舞鶴港からよこした端書はたしかに届いた舞鶴なんかんてなかなかいゝ処のやうだが君の名の肩書に孤客とやつたのを見れば舞鶴と云ふ場所はいゝ場所としても君が泊つて居る宿屋は大抵なものらしいなんとなく哀れだどうだい判断が違つたか
 其処で今日午後久米等と山本の処に集り一つの新らしい倶楽部を立てる事に極めた君も賛成して仲間入をしないか其倶楽部と云ふのは自由が第一で平常は会費も何も出さず只展覧会をやつた時に其入費を皆で受け持つと云ふ丈が規則だ展覧会は皆が我物として骨を折り出来る丈立派にやつてのける積だ安藤にも此の事を成る可く早く通じて呉れ給へ安藤も同意する事と思ふ倶楽部の名は未だ何とも附かない面白いぢやないか笑つて皆と今日は別れた
  五月三十一日 東京より
  京都・安藤仲太郎宛
 いよいよ会が出来る兎に角来月の六日には先づ飲むぞ今は初めだから能く白馬の主義が解つて居て皆が平等で会頭も無ければ幹事も無いが若し此会が段々大きくなるとそんなものが出来る様になるかも分らない(必要は無いと思ふが)其時には又止めて仕舞ふ丈の事だ
  六月八日 東京より
  京都・安藤仲太郎宛
 一昨夜の白馬会は中々似て盛だつた四十二人集つた絵の事に関係の有る新聞記者も大抵見えた昨日は菊地と二人で早朝から目黒村をぶら付き鮫洲の川崎屋でお昼をたべると云しやれに及だ早く帰て来い待て居る小林は今日あたりから天真道場でやると云様な事を云て居た
  九月十一日 東京より
  京都・安藤仲太郎宛
 白馬会の徽章は其後又色々議論があつて其結果が只紫の色計と為た昨夜見本同然に四つ丈出来た今日は学校の始まり日だので合田藤島などゝ其紫の紐を掛けて出たすると長沼が見て何だと聞たから此は僕等の仲間の印だと返詞した紫の色計ではどうだらうかと心配したが出来て見れば中々悪くない二三日内には総て出来上る筈だから出来次第に送る己は又此の紅葉頃には是非一二週間暇を貰つて京都へ出懸け度いと思ふどう考ても清閑寺の景色の写生が未だ充分でない其上京都の秋を想ふと一寸でも行て見度くなる○昨日四人連名で明治美術会へ退会届を出した其四人は小代、合田、久米と己だ
  九月十六日 東京より
  京都・安藤仲太郎宛
 徽章は出来上つたから一両日中に送る展覧会場の位置や面積などは久米が日本絵画協会の委員連と相談してすつかり極める筈又会場の飾り付けも久米が引受けた偖て今日迄に会員と極つた人々は
  久米 小代 佐野 安藤 山本 合田 吉岡 中村 堀江 今泉 藤島 和田 岡田 小林
  佐久間 黒田
 岩村、長原へは是非二三日中に逢つて話をする積りだ小代の画室が落成して昨夜其処に合田、佐久間、高島等と寄合つた一昨夜は山本翁と一緒に飯を食た今度会が成り立て皆が威勢よくやると云のを聞て大喜びで出来る丈沢山出品すると云て居た己はいよいよ大な画に取り掛つた
  九月十八日 東京より
  京都・安藤仲太郎宛
 佐野と二人で書た手紙を読だ昨日は学校帰りに久米合田と三人で展覧会の幕などを買に行たりなんかして夕方になつて内へ帰ると君等からの手紙諭快な暮しの有様が委しく書て有るので変な気持に為たあヽこんなに大骨折つて白馬会だの何だのとりきんで見るなんて馬鹿な話だそれよりいつそ京都にでも遊に行て仕舞ふ方がいくら気が利て居るかも知れない本当にそうだ併しどうも今の処ではそう甘くは行かない白馬会なんてものが生れて出た以上は其れを育てる為めに京都の事は当分話丈で我慢するより外に仕方が無い
  九月二十四日 東京より
  京都・安藤仲太郎宛
 諭快千万白馬会の事は段々甘く運ぶ中村も手紙をよこして切りに勉強して居る様子何より結構どしどしかいてのけるのが第一だ
  十月七日夜 東京より
  京都・中村勝治郎宛
 今日とうとう展覧会を開く事と為つた十二時に会員一同が集まつて会場の門前で紀念の為め写真を写しそれから切符を売つて人を入れることゝした場内の飾附けなどは一寸見苦しくはない様に出来上つたが未だ画が一向集まらないので本当に陳列が済だのは僅会場の三分の一位のものだ然し此の十五日頃までには大抵一杯になるだらうと思ふ僕の画も未だ皆は出さないあの小督の図に関係のスケツチ(油絵と木炭画)は今描きかけの大きな下絵が出来次第に揃へて出す考だ此のスケツチ類丈でも四間や五間の壁を塞ぐ事は出来る
 夕方内へ帰つたら君が贈つて呉れた松茸が届いたありがたう君の想像通り色々な事を思ひ出した山科茸狩は勿論円山から清水それからそれと一年計の間に君等と一緒にやつた事や見た物が現はれて来たアヽどうしても此の秋は是非又一緒に遊びたいもんだ一日でも半日でも
  十二月二十四日 東京より
  京都・中村勝治郎宛
 岡田の病気の事は今日和田から聞き又君の手紙で詳しく分つた実に驚た次第だ先日岡田と一緒に居る人から手紙をよこし岡田は少し風を引て居ると云て来たが歌などが書いて有つたりして愉快らしい文句だつたから風の方のことは少しも気にせずに居た其後一向文通もなかつたがもう帰つて来る頃だと思つて返事も出さずに置た大病とは気の毒千万旅の事だからさぞ不自由だろうと思ふ和田の話に奈良から電信が来て岡田の内の人が立つて往つたと云ふことだからまあ安心だ
  十二月二十五日夜 東京より
  京都・中村勝治郎宛
 奈良の方へ電信をかけて岡田の様子を問ひ合せたらもう出立したとの事だつた処が今晩白滝から岡田が京都まで来て病院に入つたと云ふ事を知らせたそうして見ると未だなかなかいゝ方ぢやない実に困つた話だ奈良の宿屋では何分不自由で仕方が無かつたゞらう君見舞に行つたら宜しく云つて呉れ
 僕等はいよいよ明日九十九里の方へ出かける
 和田藤島小林などは矢口の渡の辺に陣どる
 これから十日間計は一と勉強だ僕等の連中は小代と久米だことによつたら佐野も一緒に来るだらう安藤も少し後れて来る筈だ
明治三十年
  一月十四日 東京より
  京都・中村勝治郎宛
 恭賀新年
 京都の新年はどうだ僕等は久米小代と三人連で上総へ行て面白く歳を取つた上総の海辺の風俗は実に不思議だ景色も随分話せる僕丈でも画が十二三枚出来た
 岡田が山田病院に居て余程悪いそうだから見舞に行てやつて呉れ学校の方の事は一切心配は無用だと云つて呉れ
 約束の画(君のも一緒に)を磯谷から堀江君へ宛て出したが受取つたとも何とも云てよこさない聞合せて見て呉れ
 千枚漬は直に送つて呉れて母が喜んで居るありがたう
  五月五日 東京より
  東京・久米桂一郎宛
 雨のどんどん降るのに手前等に別れて乗り出したのが始まりで今にまだ旅行して居るが今度の旅行は実に奇妙丁度日本へ帰る前に巴里でやつて居た通りだ昨夜は手前の内の直先きのあの先日大騒をした家に友達も無くたつた一人でぼんやりと泊り込み余り体屈なので夜の十一時頃に為つて銀座を散歩すると云様なしやれをやつたさて又今朝となると天気はよし車に乗つて浅草辺を差して出掛けたこんな調子で東京の町を観ると実に珍らしくて丸つきり今迄に視た事のない国を見物して歩いて居るやうだ昼飯に例の柳光亭で安仲と一緒になり奴は一と先立ち去りオレ丈はなんだかうす暗い四畳半に玉ラムネを前に列べ此手紙を書く今夜は何処に眠るかまだちつとも見当が着かない明日は内へ帰る
  八月四日 箱根より
  江の浦連宛
 雨で随分体屈だ体屈でたまらぬ
 此処の庭に家鴨が五六羽居るが其中の一羽はちんばだ家鴨のびつこは今度初めて見たがなかなか興味のあるものだ此の野郎が聊かオレの体屈を慰める奴だ
  八月七日 箱根より
  江の浦連宛
 漸く画を一枚始めたが日が照つたり雨が降つたり何や彼やで一向はかどらぬ気計りせいていやな心持だ手前等はチラリラリッタッタでやつて居るだらうと思へばいかにも愉快そうだが実際の所は蚊なかゞ大変でナアーニ其処だつてそんなにいい気遣ひはない昨夜は少し珈琲を飲み過ぎて二時に為つても三時に為つても眠られず四十七士伝を読んで熱が出たやうになつて困つた今朝こそは一番大勉強と覚悟をして湖水の岸まで行くと又雨がぱらぱら
  八月十八日 箱根より
  江の浦連宛
 水天めが八雲琴といふものを背負つてやつて来よつた今日は幸天気もいゝから何処かへ一緒に散歩にでも出掛けやうと思ふ丁度今朝から少し仕事がいやに為つて来た所だつたからいゝ塩梅だ実は今度の画が馬鹿に寒く出来たから閉口なのだ○昨日小林から会場の事で手紙が来たから手前等の方へ廻はしてやる○今年はもう他の会と連合と云ふ事は止めて一番独立でやつてのけ様ぢやないか飾付けなどのことも考へて置て呉れ(坊主)
  八月二十七日 箱根より
  東京・久米桂一郎宛
 墓なく為りそこなつてまづまづめでたく江戸に着いたナァあの日は此処もあんまり風が強かつたから多分舟は見合したゞらうと考て居たが矢張出掛け上つたからそんな目に逢つたのだ
 昨日菊地と吉岡がやつて来たから又候賑やかに為た
  思ふとちつとひてかたる夏の夜は更る間もなく明けにけるかな
 奴等は元箱根の小林とか何屋とか云処に陣取つた安い事は不思議だ一人前一日三十五銭でしやれ込んで居るおまけに隣の部屋に烏森の美人が三四人来て居てピンシヤンやらかして陽気だ
 今朝又奴等が尋ねて来たからボートで奴等の宿屋まで漕ぎ着けた風が強く波が高かつたので大に困難した実は此処の湖水の波だから知れたものではあるが相手が芳陵と栄翁だもの芳は第一に弱つて仕舞ひ栄丈は夫れでもどうかこうか我慢したよ奴等は二人して切りに発句などをやつて居る栄翁が近頃の大自慢の句といふのは
  山いづこ一と際広し霧の湖
 処でオレの負けぬ気になりかう云のをうなつた
  箱根山のほりつくしてなかむれはふもとの里は霧の海原
 又一つ
  見るかうちに二児の山のかけ消えて小雨ふるなりあしのみつうみ
 奴等は三四日遊んで行くやうな話だオレも今月限で引上げ学校の始まる迄は何処かの海岸に行て居たいと思ふがさて今では何処と云ふあては無いのだから一旦東京に帰つて出直すのが一番いゝだらうと考へる
 四五日前に安仲が来て二三日泊つて此処から京都へ行た
  十一月二日 茨城県磯浜町大洗より
  東京・久米桂一郎宛
 うづら(安藤)と大洗に来たよ天気はよしいゝ気持だ大原なんか比べものにはならない鶉は写生をやりに来たのだがオレは全くの遊散で浜辺をぶらぶら
明治三十一年
  一月十五日夜 東京より
  東京・久米桂一郎宛端書
 例の下絵〔註・めざまし草紙表紙〕を今日かいて仕舞ふ積だつたが出来ず明日中に仕上げて明後日の午前に手前の処へ届ける
  一月十九日 逗子より
  東京・久米桂一郎宛端書
 今朝十一時五十分の汽車で此処へ来た小代の端書で見ると大原の芝居見物はどうやら皆賛成の様だナア幕はどんな都合だ小代が主任でやるだらう表紙の下絵は鴎外君から使が来たから渡した
  一月二十四日 逗子より
  東京・久米桂一郎宛
 こんな体裁の暮し〔挿図参照〕をやつて居る一昨日など天気は実に申分なかつた浜辺の気持はあんまりよかつたから一番ポツ流をやつて見たそうすると昨日から雨風さ多分東京も天気が悪いだらうこんなに雨が降つて外に出る事が出来ない時には友達でも居たら又どうにか面白くやる工夫もつくだらうにと連中が恋しくなる天気の好い時には此処の浜は一寸話せる水の色などは珍らしい青い色で富士の山は正面に見える
  五月八日 逗子より
  東京・久米桂一郎宛
 今度はとうとう行そこなつて実に残念だつた昨日は其為めに何となく不愉快に暮らした定めて面白い旅をやつたゞらう併し月の出を見る事丈は出来なかつたに違いない昨夜はかなりおそく月が出たから
 今日の雨には何処で出逢つたゞらう是で又一つ出来事がふえて却て紀念になる
 何か知らん拵へやうと思つて気計りあせつて居るが未だ何も思付かない
 昨日は気をまぜらかせる為に杉から借りたコラン先生の編物をして居る少女の図を写し始めたがなかなかむつかしい兎ても二日や三日では色の調子丈でも出来ないと思ふ
  五月十五日夜 逗子より
  東京・久米桂一郎宛
 此前の金曜に学校へ行た時も午後内の方に用が出来て亦手前の処へ話に行く事が出来なかつた
○停車場への途中芝口を通つていつか白馬会の紫のリュバンを拵へさせた勲章屋の前を通つたから一寸立ち寄て今度の徽章の図をかいて見せて斯様なのが出来るかと尋ねたら出来ると云たそんなら今日は少し急いで居るから其内に能く形など極めて又来る其時には値段の積りをやつて呉れ数は凡二十五個なのだと云ひ残して置たなんでも七宝で馬の首を入れる事はむつかしいやうに云て居たが五点の色を入れる事は出来又パレットの形を馬の蹄鉄かと思ひたがるやうだつたから蹄鉄の形にして仕舞はないやうに注文の時には能く注意してやらなければならないサテいよいよ七宝で白く馬の首を現はす事が出来ないと云ふ事になれば一寸又面倒だ○例の裸体画の事が又候やかましくなつて来たと見えて新著月刊の東華堂が今日手紙を呉れて此の二十五日に裁判があると云てよこした
 もう此処には蚊が出るやうになつた又二三日前に畠の中で一枚かいたらパレットを持つて居る方の手を十ケ所ばかりブヨに刺されたゞが今は草原の色などがなかなかいゝ昨日は湯浅と葉山の浜辺へ出かけて二時間も暑い思をしてまづいのが一枚塗れたがこいつは到底つぶしものだ又今借りて居る家の台所の図を此頃二十五号に始めた
  五月二十二日 逗子より
  東京・久米桂一郎宛
 此間からの話の白馬会のアトリエの事に就て学校で湯浅に逢つたを幸ひ和田などへも相談して呉れる様に頼んで置たら昨夜湯浅が此処に来て和田、丹羽林、等と相談の結果引受けてやつて見るとの事だから先づ生徒を菊地の処から移して月謝を取る(菊地の処では月に七十銭だとの事)月謝丈では無論費用の半分にもならないから其不足の分は湯、和等で頭割にして負担する
  六月二十日 逗子より
  東京・久米桂一郎宛
 一両日漸く天気が好くなつたので景気づき四十号を一枚今日から始めたSujetは田舎娘が草原にねころんでぐみの実をちぎつて居る処だ甘くかければいゝが
  八月一日 逗子より
  片瀬秋元長太郎方・小代為重宛端書
 僕は明日か明後日には引上る積りだから君は三日に乗り込む様にして呉れ○今日は此処も風が無いから其処の暑さは思ひやれる
  八月六日夕 日光萩垣面高照庵より
  片瀬・久米桂一郎宛
 いよいよ日光の住人と為つた今度磯谷を引張つて来たのと五百城〔文哉〕の世話とで万事都合よく運び大きなお寺で画をかく
 サテ小代はどうしたらう三日までは逗子に居て待て居たが来なかつたから仕方なく夕の六時の汽車で立てしまつた其翌日位は引越したかしらん
 成る程日光は雷の名所だ今日もたつた今までは極いゝ天気だつたがゴロゴロ始めて忽ち曇つて来た今に夕立が来るだらう○涼さは昼間は左程にも思はないが夜蚊が出ないのと冬被るやうな夜具で寝るので分る又真昼間でもムーツとするやうな暑さはしない○蝉とひぐらしの声は盛だ
 オレのアトリエと極めたお寺は興雲律院と云ふ寺で随分宏大な建物だが其広い所に和尚と小僧と大小しめてたつた四人で先づ明き寺同然だ今日始めてお座敷を拝観に及んだが本尊の阿弥陀様其他一二の仏体皆名作といふのではなさそうだ庫裡に大きな大黒様があるが其丈は一寸面白い気味の悪いやうに思はせるのは本堂の一部の天井板に何だか油じみた様でいやに赤つちやらけたものが見えるがこれは血のついた足跡だと云つて居るどうだい
  八月十三日 日光より
  東京・久米桂一郎宛端書
 此一両日は此処もなかなか暑い仕事をする時にはシヤツ一枚で汗が出るだが朝晩は涼しい又昼の暑さと云てもムーツとしたやうなのではないから気持ちがいゝ○今では小督丈に終日かゝつて居るから其他のものは一枚も出来ない○夜は時々町へ散歩に出て古道具屋などを冷かす住んで見れば此処は箱根宿より余程陽気だ○磯谷が居るから賑やかでいゝ
  八月十八日 日光より
  東京・久米桂一郎宛
 画は漸く先づ半出来の体だ六人の人物の内三人半程塗つた人物が一と通り塗れたら地面などの仕上げに掛る考だ地面は今一度写生をしてからやらなければ甚だ不充分なやうだから此処で又何処かを写しに出掛けなければなるまいと思ふ今では毎日必ず五六時間位仕事をする○先夜町で清長の物見岡と云ふのを買つたなかなか好い本だ確か手前は此本を持て居たと思ふ北斎の五十三次も揃つては居ないが一寸面白いのだつたから買つて置いた
  八月二十一日夜 日光より
  東京・吉岡育宛
 此間から君へ手紙をやらうと思つて居たが昼は仕事夜はくたびれて早くねると云ふ始末で書けなかつた安仲が伊香保から一度手紙を呉れたが其後便りがない僕が此処に居るうちに一寸でも遊に来ると云て居たがまだ来ない
 僕は今月中に是非彼の画を仕上る積りでやつて居る幸ひ此高照庵から二町許の処に興雲律院と云ふ至極閑静なお寺があるが五百城君が其処の和尚様に話をして呉れて広い明間を使つて仕事をする事を許されたので大きに仕合せさ画はもう大分出来た此画はよつぽどお寺に縁があるお寺であの趣向を思ひつきとうとう仕上げも亦お寺でやる
 高照庵は霧降街道の萩垣面と云ふ村に在る此の村には人家が僅か四軒丈だ其中の一軒は咬菜画屋是れが即ち五百城文哉君の家だ五百城君が引込んでから七年になるそうだ
 五百城君は重に水彩画をやつて居るまた山奥に在る草花などを採つて来て植ゑて楽しんで居る草花の絵は中々上手だ又書生を二人ばかり世話をして居るこんな山の中で洋画を学ぶ人などがあるのは不思議だ
 東京の暑さは随分ひどいと見えるねー此処では晴天の時でも八十二三度位のものだマア東京での秋の初めの調子だ此頃はもう木の葉が少しづゝ散り始めた
 高照庵の事を話すのを忘れた此処には或る老僧が隠居して居た処で二タ間丈の小さい家だ併し庭には池などがあつて一寸しやれてる何しろ町まで出るのは不便だ可也長い石段の坂路を下り岩のごろごろころがつて居る稲荷川の広い河原を通つたりして十町程も行くのだが此の高照庵は気に入つたよ
  拝殿の真赤に見えて夏木立
  駕篭に乗り通る人あり夏木立
 此れは君への返しで磯谷の作だ
  八月二十五日夜 日光より
  東京・久米桂一郎宛
 一昨日附の手紙を受取つた此処は評判の通り雷が中々多いそうして雨が非常な勢で降る雨の粒の太いことは大袈裟に云へば小指の頭位だ一昨日も昨日も雷に大雨今日も朝から雨だ其れが為めにたいした事が持ち上つた此の萩垣面と日光町との間に稲荷川と云大きな河が在るが其れに水が増して今日の夕方にとうとう橋が流れ失せた此道が町への一本道だから雨が止んで橋が掛らなければ食物でも何でも一切求めることが出来ない若し二三日も降り続く日には兵粮攻になる次第で心細い話さ此手紙さへも書いては見たが何日出せるか分らない  小督の絵はもう二三日もやれば一と通り落成だ手前は折角描きかけの草原を刈られて仕舞つたのか実に悪魔と云奴は不思儀なひねくれものでいつでもそういふ悪戯を仕上る
 小代からも今日手紙が来たが九十度前後の暑さでは碌に勉強の出来ないのは無理で無い
  八月三十一日 日光より
  片瀬・久米桂一郎宛
 端書は一昨夜読だオレの画も大抵出来たから昨日は中禅寺行きと出かけた此村の女子供の連れが出来て同行七人往復とも歩いた女連が草鞋がけに杖をつき赤や白の褌を出して山路をてくてくやつて行く姿はまるで名所図会其侭さ斯様なことは一寸面白かつたが汗は流れる息は切れる夫れに靴が足を食つて痛くつてたまらずオレが一番まへつた併し何分にも女連が平気な面をして歩くのだから我慢に我慢をして漸く内に帰つた今日は足の裏がいやに厚ぼつたくなつたやうで股の辺が痛いやらこんなに弱はらうとは思はなかつた中禅寺の入口の森の中を通り抜ける処は非常に好い色だつたフォンテヌブローを思ひ出させる今度始めて華厳の滝をはつきり見たが随分立派なものだ
 帰京は未だ何日とも極める事は出来ないが先づ来月の七八日頃として置く
(「光風」1-3~4・2-1~4・3-1・4-1~2  明治38年9・11月・39年1・3・6・10月・40年6月・41年6・12月)
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