黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > IV 定期刊行物

◎予が知れるフアルギエール

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記者一日黒田氏を訪問し談偶々仏国近代の彫刻大家フアルギエールの事に及ぶ氏為めに同人の経歴を語り且つ其の写真像を示さる因て其の梗概を筆記し写真と共に〓に掲録する事せり
 フアルギエールは、一八三一年の九月七日仏蘭西のツールーズ県に生れ、巴里の美術学校に入つてジユツフロアの門人となり、一八五九年に所謂グラン・プリ・ド・ローム賞を得た。此人が其作品をサロン及び万国博覧会に出品したのは実に沢山であるが、一八五七年のサロンに出したのが一番初めてゞある。其作品中で誰も能く知つて居るのは、先づ「闘〓の勝利」で、是は十四五歳位の男児が一方の腕に〓を抱へ、他の方の手を高く掲げて中指と親指でぱちぱち音をさせながら、如何にも大得意で駈けて行く如き姿勢の銅像である。此像は一八六四年に政府で買ひ上げて、今にリユクサンブール美術館に備へてある。
 其次は耶蘇教の殉教者なるタルシニユースの像にて、大理石に彫刻してある。是れも同じく今にリユクサンブール美術館にある。其石像は痩せた十五六歳の男児が倒れて居て、胸の所を押へて頚を無理に擡け、今にも息を引き取らうかといふ苦しい様のものである。以上の二つは何れも若い時分の作であるが、其他肖像や又ヂヤヌの像など実に立派な作品が数多くあるので、〓に一々挙げて云ふことは出来ぬ。
 私が初めて巴里に行たのは、一八八四年で、其時分に凱旋門の上に戦車に乗つて居る女神の像が立つて居つた。それは四頭の馬が引つぱつて非常に威勢のよいものであつたが、此の飾物も矢張りフアルギエールの作で、一八八一年に見本の如くに拵へたものであつた。其後一八八六年に至り、遂ひに取り壊して、実際中々立派なものであつたが、惜しいことには永久のものにならずに消えて仕舞つたのです。丁度一八八五年彼の有名な詩人のヴィクトル・ユーゴーが死んで国葬に為た時などには、まだ其女神の像が凱旋門の上に立つて居て、其門の下に、ユーゴーの棺を仮に収めて、公衆に参拝させたが、門の上に其立派な飾物があつたが為めに一層壮厳であつた。
 さて私がフアルギエールを知つたのは、一八八七年頃であつたかと思ふ。此人は一寸見ると至つて渋い面付であつたが、其実大変優しい親切な人で、私共の様な若い者が遊びに行つても、全然友達のやうに扱つて呉れた。  又たフアルギエールは、彫刻に巧みな許りでなく油絵の名人であつた。此人が彫刻によつて得た賞牌などは実に沢山なものであるが、其重なものは、一八六七年の万国博覧会の時に一等賞、それから一八六八年のサロンで名誉賞、其後一八八九年の万国博覧会の時には一等賞等である。
 フアルギエールは一八八二年に巴里の美術学校の教授に任ぜられ、又同じ年に其師匠ジユツフロアの後任として学士会員に推挙せられたが、一九〇〇年を以て死去した。
  (「美術新報」2-5  明治36年5月20日)
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