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◎黒田清輝氏  黒田譲 『名家歴訪録』中篇

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同年十二月十一日、東京美術学校教授、洋画家黒田清輝氏を其旅館なる京都木屋街富貴楼に訪ふ。之より先、余は両三回氏を訪ひ面接を得たるが、坐客常に多くして、詳らかに其議論等を叩く能はず。因て此日は清水寺畔を散策し、且歩し且語るの約ありしなり。かくて当日に至れば、陰雨迷濛として、また散策すべきの日にあらず。午前十時頃氏を同楼に訪ひしが、細雨は時に鴨川を篭めて、さと小暗くなるかと思へば、またてらてらと日光を洩らし、千鳥か、あらぬか、一声鳴きて飛去る小禽の背を照すことあり。さては晴るゝよと打見遣れば、またも一天掻曇り、陰雲は低く垂れて、今にも大雨の襲ひ来らんづ光景なり。氏曰く、之では散策も出来ず、よし此処にて相語らん。と、然り、「鴨崖の水楼にて此静寂の光景に対す、まさに天の吾曹をして世外の間談をなさしむる好箇の場処、好箇の風光」況んや相語れば、余が黒田〔註・黒田譲〕は江州に出でゝ、如水氏と祖系を同ふし、氏の黒田も江州といひ、また越前と称するも、寧ろ江州より出たるものゝ如く、紋章等も同一にして、三百年前許に溯れば或は同一系なるも知れず。因て歓然として、新知も旧識の如く、依々たる情懐の、自づから他と異なる者あるに於ておや。
 氏曰く私の祖先は島津家四代貞久公の時に客分として聘せられ、後には城下に住して其家臣となつたのであるが、祖先の中には、君候が没なれば殉死をする約束が出来た程で、其頃から続いて政事に与かることになつたらしい。また曾祖父になるのが、江戸の聖堂に学び、学成つて後、国で学問の方につき骨を折り、祖父も親父(清綱氏)も学者の方で立ち、又親父は維新前諸方へ使に出されたり、国事に奔走をしたので、--元来鹿児島は武といふことは誰でもやらん者はないから、親父も無論武もやつたが、どちらかといへば、まづ学者で、文官の方であつたです。
 それで私は小児の時分から、画が好であつたが、十二歳の時に、親父が狩野派の画家で、樋口探月といふのを画の教師に頼んでくれたが、此時には宝珠とか、竹とか、二三枚手本を描てくれ、一向面白くないので、止てしまつたのです。
 其後親父が、一層西洋画がよかろうといふので、細田といふ中学校の教師か、何かしてゐた人を師匠に頼んでくれたですが、こゝでは景色画などを教へ、方々へ写生に行き、また水彩画をやるといふようなことで、大変自由で面白かつたです。それで続いて半歳許りもやつてゐたですが、其頃未だ私は小学校に通つてゐたので、それで小学校卒業後、二松学舎に通ひ、又斉藤実頴氏に学び、撃剣は川田景興氏のこしらへてゐる道場に通ひ、内では親父の指図で毎日薩摩風の建木を打たりしてゐたですが、其頃頭脳が「えらそうな」方に傾むいて来て、男一人前になるには、面白いことが幾許もある、画などやつてゐるのは馬鹿らしいといふので、それで画は止てしまつたです。
 またえらくなるについては、洋学もやらなくちやいけない、そこで神田の共立学校に通ひ、後に築地の英学校に通つたのですが、此際えらくなるについての考へが熟して来た。それは其頃に伊太利の英傑ガリバルチーの伝記を読んで、どうしても男児はこういふ事業がして見たい。それをするについては、法律を学ばねばならん、法律をやるには仏蘭西に限ると、そこで英語を止て仏語を学ぶことになつたです。
 それで仏語を、初めは井田、松波などいふ人に学び、後に其頃帰朝された寺尾壽氏につき、ついで外国語学校へ入つたでした。処が外国語をやるには、どうしても外国へ行かなければいかんから、親父に屡々仏蘭西へやつてくれと頼んだですが、親父は誰かいゝ連があつたらやつてやるとのことで、暫らく躊躇してゐる中に、幸ひ親戚の者が、書記生で仏蘭西の公使館に行くことになつたから、遂に其人について仏蘭西に行くことになつたのが、明治十七年の二月でした。それで彼国で一週間目に或る私塾へ入り(小学から中学までの程度)、次でリツセ官立中学校に転じ、明治十九年の十月に法科大学に入りました。
 処が其頃にです子、日本から画の稽古に仏蘭西へ来たものがあつたです。それは藤雅三といふのでしたが、此人は言葉が判知らないものですし、私が画が好きでもあるから、どうか通弁して、画の教師の処へ一処にいつてくれんかとのことで、私も元々好きな方でもあるから、承知をして通弁をしてやり、一処に画工の家へいつて、画の風なり、また生活の模様なり、詳しく観るについて、成程画といふものは面白いものだ、また之で十分やれば立派に生活もしていけて、決して軽んづべきものでないといふ観念を再び起したでした。然しまだ其時には、画家になるといふ考へはないので、……。
 然るに私は法科大学に通ふてゐる傍らに、或法律博士の処へ通ふて、別に講義を聞てゐましたが、此法律博士は教授が至極不親切であるから、其後そこを止て他の教師の許へ通つた。処が先の法律博士は大に立腹して、法律を曲解した上に、裁判所に訴へ私に損害陪償を出させると力んだです。固よりさる訴訟の成立つべき筈もなく、また法科大学の教師の助言もあつて、其まゝ打捨て置き、先方も遂に訴へもしなかつたですが、此出来事が痛く私の頭脳を刺激してゞす、事物の道理は強ち法律に依らんでも判知る、また法律をやつて博士までになつてゐる人が、其科条を利用して人を苦しめるようでは決して頼もしくない、而して法律家は往々此傾むきがあるとして見れば、法律なるものが一向面白くないと、そこで法律が厭になつて、一層止ようと思つたです。
 そうして一方には、画といふものゝ面白さを段々感じて来たですから、法律などをやり国へ帰つてえらくなるといふような考へをして居るのは馬鹿らしい、夫よりは一層世間に通用する業を覚へた方がましだと考へ、法科大学は一学期やつただけで断然止て、画を学ばふと決心し、手紙を親父の許へ送つて、其事を請ふたです。而して一方には其頃山本芳翠氏が仏国から帰朝して、黒田は法律などやらせるより、画を学ばすがよいといふことを佐久間貞一氏に語つて、貞一氏はわざわざ私の親父の処へいつて之を勧めてくれたそうですが、親父は別に何を為さんならんといふ考へもない、兎に角本人の好なことで身を立るがよいとのことで、私の請を許してくれましたから、明治二十年の夏休から断然法律を止め、一先づ頭脳を一新しようと思ふて、白耳義から和蘭の方へ二ケ月許り旅行をなし、いよいよ十月から画を稽古することになつたです。
 其頃久米桂一郎といふのも、画を学びにやつて来たです。又藤は居るし、交際ふ人に画家が多いので、私の頭脳に自づと影響が多かつたです。それで藤は其後一年許り同じ処で学んでゐたでしたが、絶へず一処におつたのは久米なんです。それで私等の通つたのは、伊太利人コラロシーといふのが持主で、教師三四人を雇ひ、持々の教場は別になつてゐる画学校で、私はコランといふ教師に就て学んだですが。この画学校は畢竟営利的であるから、其後コランの書生ばかり集つて、一の画を学ぶ処をこしらへ、そこでコランについて教を受け、また解剖は美術学校へ通ふて二年ばかりやりました。
 処が西洋画の教授法といふは、初めから終まで人体ばかりで、景色画などは夏休みにやるとか、また傍ら自己の嗜好によつてやるだけで、普通の稽古といふと裸体画ばかりで、私など丁度五年間ほどやりました。……ハア、衣服を着せた図は余りやりません。時には古代の衣服を着せたり、また今様の流行を粧はせて画くこともありますが、夫は至つて稀なことで、……何分人体さへ十分研究して置きますと、其原則が他の動物にでも、景色でも、那処へでも応用が出来るので、……然し久米は自分の嗜好上、重に景色画をやつたです。
 それで仏国ではサロン(絵画展覧会)でもつて、殆んど画家の力量が定まるので、そこへ出すといふことは、画家が一番頭脳を悩ます処なのです。尤もそれぞれ教師の許可を得て、審査官の許へ出すのですが、其審査を及第することが大変六かしい。先づ毎年新旧と二カ所で展覧会があつて、一ケ所に絵画が凡そ七八千だけは出ますが、其中及第するのは千二百位よりないです。然し古い方(仏国美術家会)よりは新らしい方(国立美術会)へ出るのを尤も名誉とするので、私は二十四年に前のサロンへ出し、二十六年に古い方へ変へたです。
 私の教師はサロンの審査官であつたですが、私の描たものゝ傾向、サロンよりはこちらの方がよかろうと、其紹介によつて、ピュビス・ド・シヤバンヌといふ、此十九世期の大家で二三年前に歿しました、其人の処へ見せにいつて見て貰つたでした。然るに幸ひ其方の展覧会に受取られたですから、同窓の者等は不思議に思ふ程で、また私の画の批評が新聞紙などに出た処から、私の教師も大変得意になつたです。
 そうしてやつて居ましたが、何日まで学んでも限りといふことがないから、明治二十六年の六月に仏国を出発し、米国の市俄古博覧会を一見して、七月の三十日に横浜へ着ました。
 それで帰朝してから、生活の変化やら、其他種々の事情もあつて面白くなく、本牧やら、また鎌倉にある親父の別荘に居て、朋友は久米などゝ往来してゐましたが。二十七八年の戦役には従軍することとなり、金洲に一カ月半許りも居り、後に先発隊に附て栄城湾に上陸し、威海衛の方まで行きました。
 ハア、二十八年の博覧会に出した裸体画は、即ち仏国で後の方に出したもので、先づ卒業製作ともいふべきものです。それであの裸体画は、仏国の女子が朝起かけに髪を解て、結びなほすといふ処ですが、最初は画題を「トワレツト」(化粧)とつけて見たが、どうも面白くないから、「モデル」にした女に相談すると、之は「ルベー」(起る)といふがよかろうとのことで、仏国の方では「ルベー」としたです。ハア、「モデル」になつた女子は、普通教育があつて、地方の女学校にゐたのが、或る学生と一処になつて駈落をして、そして巴里へ来て手が切れた処から、遂に「モデル」になつたのだそうで、一寸思想もあつて、小説の談話位出来る女でした。
 ハア、近頃では欧洲全体で、「明るい画」を描くといふ傾向になつたですが。欧洲人が従来の考へでは、陰影をつけぬば画が平面に見へる、それを円ふ見せたり何かするには、是非陰影をつけねばならぬ。即ち一方を明るく見せようと思へば、一方を暗くせねばならぬと、こういふ処から、無暗と陰影を用ひたのですが。第一陰影の濃い画は、見た処が汚ない。--明暗が極端に表現はれてゐる画は見苦しい。--また夫ほどにせずとも、随分平面でないように見せられるが、欧洲人は其考へが殆んどなかつた。
 然るに「明るい画」の傾向が生じたといふものは、仏国がアルゼリアを取つたなども一つの動機で、此アルゼリアは空気が至極透明で、其風景が明るく眼に頗る爽快である。それで段々調べて見ると、欧洲でも、千四五百年代の画は、影日当が尠く、人物の姿勢などの無邪気な所や、衣服の皺の描方などが日本の古画の或るものや、又上手のかいた錦絵などに能く似た処がある。それで古代の画を真似するとまた日本画を真似する。--また従来風景中に人物を点ずると、人物だけは家屋中で見た処の陰影をつけて、そして之に外の景色を添へたのであるが、実際野原なり、山なりに立て居る人物にそんな色はない、これ等も不都合であるといふことを悟つたです。--このように、第一、陰影の濃い画は見る目に汚ない、見苦しい。第二、従つて精神に不快を感ぜしめる。第三、それほどにせずとも画は平面でないように見せられる、古代画も、日本画も殆んど同一の方でやつてゐる。第四、アルゼリアの風光が大教訓を与へた。第五、風景中の人物に於る描法の誤謬を悟つた。--此等の理由は相湊合して、遂に明るい画、即ち陰影の尠ない画を描くといふのが、欧州全体の傾向となつたです。
 然るに日本画に於て、却つて此欧洲に於るまづい方法を殊さらに学んで、陰影をつけようなどゝ考へてゐるなどはつまらんはなしで、日本画はそんなことをせずとも、十分他の方面で発達してゐるから、陰影などは一切関はんでおいてくれんと困る。只日本の画で、どうしても改善せんならんのは形にあると思ふです。
 なに美学ですか、今の欧洲に於る陰影なども、一方では美学の学理に抑へられた一の弊です。画家が美学に材料を供給してやつていゝですが、美学に画家がこしらへられては困る、アハゝゝゝ。
 氏の談話は略ぼ以上の如し。氏今年三十四、短身禿頭、一見四十前後の如く、資性淡泊にして辺幅を修めず、而して其道に勇猛精進にして、優に一派の儀表たるに至つては、実に敬服に堪へざるものあり。此日談話数時に度つて手を分ちぬ。
   (黒田譲編 『名家歴訪録』中篇 山田芸艸堂 明治34年12月)
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