黒田記念館 > 研究資料 > 黒田清輝関係文献目録 > III 単行図書

◎洋画問答  大橋乙羽編 『名流談海』

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一日黒田清輝君を、その平河町の邸に訪ふて、いろいろ油絵の事に就て、問答を試みた、君は子爵黒田清綱翁の長子で、仏蘭西に十年近くも居り、絵の修行をしたお方であつて、油絵といふものに就ては、尤も新らしい学問をしたんである、日本に帰つてから、同志と共に白馬会といふを起し、今年の秋は上野にその絵の陳列場を設けて、満都の喝采を博した、予の君を訪ふた日は、君は多くの〓駝師を指揮して、庭造りに余念無き時であつたが、快く予をその画室を引いて、興あり気に談された、(問)とは予〔註・大橋乙羽〕の問である。
問 一体油絵に新派と旧派と云ふのは、どう云ふ点から、あゝ云ふ名称が出来たのですか。
答 名称の出来た原因は能くは知らぬですけれども、新聞抔で色々に書き出してから、あゝ云ふ名になつて仕舞つたのだらうと思ひます、つまり絵の上からも自然区別があるからです。
問 絵の上の区別と云ふのはどう云ふのですか。
答 新派と名付けられた人と旧派と名付けられた人の書き工合です、それが自然違つて居つた、目の着け所が違ふ、絵の上で以て随分其二つの派は、大別して居ると言つて宜い位になつた、それから自然あゝ名が付いて、今の所では全く違つたものと、人も思ふ様になつて仕舞つたです。
問 違つて居る点ですね、どう云ふ所が旧派で黒いとか白いとか云ふことがあるですか。
答 色の黒いと云ふのと、明かるいと云ふのは、ちよつと見ても知れる、それは何故と云ふと、先づ絵書きの使ふ絵の具が違ひ、切れも違ふ場合がある、本当の旧派と云ふ方の特色の奴を書かうとした時には、油を吸ひ込む切れを使ふ、旧派と云ふ方で書いた奴は、総べて黒い影がある、ビチユーム色は旧派の色と云ていゝ位です、さう云ふ工合に違ひが出来て来るのは、目の着け所が違ふからの事です。
問 旧派ですね、旧派なるものゝ絵は、昔で云ふと、どう云ふ所になつて居るですか。
答 絵の具の上から云へば、昔の人は皆旧派なんですが、目の付けどころから云へば、今云ふ新派の狙つて居る点を、甘くやつてのけた人も無いではない、全体新派だとか旧派だとか云ふ、いゝかげんな名に就いてお話をしはじめましたが、私の云ふ旧派と云ふのは、重に日本で今迄かいて居た油画と云ふ意味で、新派と云ふのは西洋で此頃やつて居る明かるい画一般の事で、アンプレツシヨニスム丈の事ぢやありませんから、其積で聞てください。
問 新派なるものはいつ時代から起つて来たもので、誰が創設したものですか。
答 左様画を明かるく書くと云ふ事に為つたのは、極く近頃のことなので、此の十九世紀の中頃即ち仏国にてミレだとか、ルーソーだとか云ふ時代の絵と云ふものはまだ今日のやうに明かるい絵ではなかつた、併しミレ時代の画は、世紀の始めの絵に較ぶれば非常に変つて来たもので、其変化はどういふ工合かと言へば、目の付け処が新らしく為つたのです、実地の事や天然のものに就て研究するのです、人情風俗のチヨツトした節を、しつかり押へてかく事を仕始めた、それまでの趣向と云ふものは、さうでなくて只工夫をして絵書き部屋の中でク子つて、ものを拵えて仕舞つた、だから線や位置は一と通り甘く行て居ても、感ずるものは前の時代には鮮い、其処でミレだとか、又景色の絵書きで名高く云ふコローと云ふやうな人の絵は、感じの方から持て来た絵なんで、即ち考へ丈は新派です、併し色と云ふ側から言へば今日のやうに明かるい色はなかつた、其後に段々明かるくなつた、今日では極端まで進んで明かる過ぎるのもある、兎に角世上では大抵明かるい画が、いいと云ふ工合になつて来て居るです、日本では私なんかが西洋から帰つて来て、始めて新派だとか云ふものが出来た、夫れは私達の絵が明かるいから、前から日本に輸入されて居た画の風にくらべて見ると随分違ふので、これでも油画かと驚く人も有れば、又は明かるい画は日本の今の時勢には適しないなど云ふ人も見へた、かれこれでとうとう人の交際の上からも、何だか可笑しな調子になつて来た所もあつた、それで今度は交際の側からのことを、重に人が気を付け始めた、さうして旧派と言ひ新派と云ふ奴は権力の争ひ、社会上の位置の喧嘩の結果だと言ふ迄に及んだ、実の処は交際上の喧嘩は、世間で云ふ程一向立派でないのです、併し絵と云ふ側から全体非常な違ひがあるから、二つに別れるのも無理はないのです、欧羅巴はさて置き、此頃は随分明かるい絵を書く人が多くなつた、何故明かるい絵を書くことが、流行るやうになつて来たかと言へば、前に言つた感じの方を書くと云ふ方で、只ものゝ形を書くと云ふ丈でないからです、これが時勢と云ふものでしよう。
問 旧派は先づ色が変つて居なくても、ミレやコローの絵の工合と違ふと思ひますが……
答 御尤です、ミレやコローは考の上からは全く新派です。
問 新派と旧派の仕方と、かき方とには、何も違ひはないですか。
答 西洋では黒い画をかく人も明かるい画をかく人も、稽古の仕方に違いはない、画の学校も立派なのが沢山有つて、一般に裸体の人間を手本にして稽古するのです、線の強い弱い、隈取りのかたい、やわらかい、それから色の出し方などでも、裸体に付て話を聞くのが、一番分り易い、又教へる側でも説明がしやすい、日本では本式に稽古する処は、今までは一つも無かつた、本式の稽古でないのですからクロモ石版や何かを手本にして、それを写してまづ一寸云はゞ、筆の使ひ方を覚へる、木の葉はこうかくもの雲はこうかくものと云ふ形を知る、この覚へた形が癖に為つて自然のものに向つて、さてかくとなると先づ自分の御手本にした画が、目の先に出て来て、それから其手本の筆法でやらかす、こう云ふのが旧派の稽古の仕方と、旧派のかき方だと考られます、夕日なら夕日の半分山の後ろに隠れて、光線を僅かに余して、木の上の方がチヨイチヨイ、明かるくなつて居ると云ふやうな所ですね、さう云ふ場合を写して、どう云ふ天気具合の時どの位日が入りかゝつた時と云ふのを、書くのが之が新派なんで、それが又さうでなくつて安芸の宮島とか、それから天の橋立とか云ふ名高い景色を、似た様に習た様に書くのが、旧派です、景色なら景色の形を記するのが旧派、新派と云ふ方は先づ其景色を見て起る感じを書く、或る景色を見る時には雨の降る時もあり、天気の極く宜い時もあり方々ある、其変化を写すのです、総べての絵が其通りで、人間の顔色でも色合ひでも、皆さう云ふ所を写す、先づ色合ひで言へばですねへ、人の顔と云ふものは頬の処が、桃色のやうに紅くして、唇も紅くして居る、額や鼻の先き抔は白茶けて居る、さう云ふ規則に依つて、其通り書き上げて仕舞ふのが旧派なんです、又其人の面の内で一番明かるくなつて居なければならない筈の、鼻の頭の所が黒くなつて居る、それから耳の端が真赤にして居ると云ふやうな所を書くのが新派なんで、それは大変奇を好んだやうで可笑しい、併し奇を好んでやつた訳ではない、さう云ふ空気の中に或る特別の場合があつて、其処の実にチヨツとした感じを写した、同じ人の顔に就ても光線を前から受けたのと、後から受けたのと、外とに置いた時と内に置いた時とは大変色の工合が違ふ、其奴其区別をしないで、同じやうに只顔なら顔と云ふ様に見へる丈に書くのが旧派、外とに置いた奴は、外とに置いた通りに、頭の髪の上にも蒼い空の反射があつて脇にあつた花や草の反射が鼻の下や唇の脇に付いたりする、ことによると、半面真赤で半面真黄色な場合も有る、夫を遠慮なくかけば新派です、それでミレだとか何だとか云ふ時代の絵は、今の新派がやる程、色の研究をしたのは鮮いですけれど、日本の旧派と云ふ人達のやる様な、変化の無いものぢやなかつた、已に夕立だとか、虹だとか云ふ様な節を自在にやつてのけた、それだから私がミレなどは考の上から新派だと云ツたのです、色の変化に就て研究する事は其後に始まつたミレ時代にはまださう云ふ細まかな所まで、立至らなかつたのです、今の時代がミレ時代より一歩進んで、一つのものに就ても、其色の変化に人が目をつける、私などもそう云ふ空気の中に育つたもんですから、只物の形をかくと云ふ丈ぢや気がすまない、其処で色々研究して書いて見せると、此方の人の目に慣れないものだから、善し悪しは兎に角、顔と云ふものは白いものだと思つて居つた所が、青く書いてあつたり、髪の毛が黒いものだと思つて居ると黄に書いてある、さうすると随分攻撃される、それは攻撃されやうが、されまいが、新派の特色なので、さふ云ふ変化をやるのです、それだから写真などを見て、やるなどゝ云ふ様な事は一切やらない、一つの規則と云ふもの、たとへば影は黒くすべきもの、日向は白くすべきものと云ふやうなことを、私なんかは大に嫌ひます、規則的の画は今日の時勢に適しない、日本の油絵は未だ時勢に適するなんのと云ふ程の事はないですけれども、仏蘭西などでは黒い奴はもうだめです。
問 それで私抔の考では、旧派のやうに真黒いものは、どうしても陰鬱な、明かるいものは陽気なもので、日本の人情には新派の方が、従来盛んになつて行くだろうと思ふです、新派と云ふものは或る一つの学問、理化学と云ふやうな色の配合だとか、空気の工合だとか云ふものを巧みに応用するのが、新派の主眼であるのですか。
答 それはシアンス〔科学〕を幾分か応用すると云ふのもないではなく解剖学や遠近法などは無論知つて居なければならない、それから絵具などについても一と通り、此色と混ぜると何う云ふ作用を起すとか、変化しないとか、変化するとか云ふこと位は、誰れも研究するのです、色の配合や空気の工合などを旨くやるのには、別にシアンスを応用するなど、大袈裟に云ふ程の事は決して有りません、先づ云はゞ一つの画について、其画の色の釣合などを見るのには、いくらシアンスの力が有つてもだめです、其処が絵師の天窓がなければならない処です。
問 それで書くのですねへ、先徒が旧派なり新派なり、学んで一通り、出来ると云ふ域に進むには、何方が早く行きますか。
答 さうですね、一年二年習つた時位までは旧派と云ふ側の方が、大変調子が宜いだらうと思ふです、同じ絵を習ふのでも手本を借りて、それに依つて書くと、始めから物になつたやうなものが出来る、併し私抔のやる方法で行けば、石膏だの裸体に依つて書かせるものだから、一年や二年書いたつて出来たもので一面の画の形を成したものは、チヨツト少い、其形を成したものが出来ないと云ふのは、其処が新派の得意な処で、始めつから画をこしらへる事は無用です、只物を見る目の寸法を拵へる、其内に手は独りで慣れて来る、それで先づ目の寸法と云ふ側をしつかり固めて置いて、それから油絵をやらせる時には、人の形はスツカリ書けると云ふ工合にさせるのである、旧派の稽古の仕方に依て出来た画を見れば、二三年書いた位では大変結果が宜いやうです、風景でも何でも書けると云ふやうなことになる、それからチヨツトした絵画きになるには、其方が大変宜からうと思ふ、併し此の方法は速成法ではあるですけれども、本当に立派に仕上る道では無論ない、或る時私が或る人に規則的の教授を受けた事が有りました、裸体の画の稽古を始めてから四年目計の時でしたが、或る学校に新に這入つてかいて居ましたら、教師がやつて来た、さうして私の画を見て大変褒めた、其先生褒める癖がある、無暗に褒める、私の書いたのを見て褒めた。私の教師抔はちつとも褒めぬ、悪るくないと言へば非常に褒めたのである、所が其先生は始めから大変宜いと言つた、妙なことを云ふ人だと思つて、一通り言はせて聴て居つた所が、其人が云ふには絵を書くのは、お前さんの様にやつても大変宜いけれども、影日向を一時に書いて行くことはしない方が宜い、影の所は何でも宜いから一通り黒い色で塗つて置いて、それから日向を書いて行くが宜いと言つた、私はそれつきりで其処の学校には行かなかつた、大変私抔のやる方法とは違つて居る、私抔のやり方は影でも日向でも自分が是れだと思つた調子の色を似て、ちやんと其度合に適した場処に持つて行つて置けば、もうそれで沢山だ、復たと動かすことはない、さう云ふ方法で習つて居るのに、一つの規則に入れやうとした、地と云ふものを兎に角塗つて置いて、それから片一方の明かるい方から、ぽちぽち塗つて行けば書き易い方法なんで、それは書生が或る度合ひまで進むには大変仕易い、予じめ黒つぽい色で、何の色でも構はぬ、ビチユームの様な便宜な色で塗つて置いて、そうして明かるい所を付けると、忽ちものが浮て見へる、其方法を詰り教へたのです、旧派と云ふ側の習ひ工合は、詰りそれなんですが、さう云ふやうな方法で習ふ、私なんかゞ習ふたのはさう云ふ方法は何にも習はぬ、自然と首つ引きでそれだから大変始めは這入り悪い、けれども研究すると云ふ側から行くと大変面白いのです、何も規則が無いのだから面白い、手にも目にもくせが付かない自由に発達する事が出来る、今日本で云ふ旧派と云ふ人達の習つた方法は、どうしてやつたか私は知らぬですけれども、先づ旧派と世間で呼ぶ人の書いた絵に拠つて見れば、大抵其の方法は見える、空を書ても又木を書いても同じやうな色や形で似て出来上つて居るのです、空にしても先づ下地として蒼い色を塗り、それに白い色や鼠色のやうな卵色のやうな色をぬりつけて雲にすると云ふやうにやつて居る、果して朝の色だか昼の色だか晩の色だか雨降る時だか、日のあたつて居る時だか、能く分らぬです、それは全く一の規則に拠つて行くからの事で、一寸画らしいものをこしらへる様に為るには至極いゝです、がそう云ふくせがついて仕舞へば、何某と云ふ一人前の者に為るのは難いですから、いそげば廻はれで始めつから、規模を大きくどんな型に接しても、人間を並べるなどは差支ないと云ふやうに、物の形を書かうと云ふには、確つかり固めて掛らぬと往かぬです、本当の絵書きにならうと思へば、私なんかの方法が宜いかも知らぬと思ふです、其代りに私なんかのやり方では二三年やつた位のことぢや、絵書きだか何だかさつぱり分りやしない、それと変つて規則に依る方では、二三年もやれば木だの山だの書けるように為つて、石版の下画や、新聞のさし画位は出来るでせう。
問 それではあちら抔では石膏抔は十分あるだらうと思ふ、裸体でもモデル抔と云ふ方法を以てやるですか。
答 それは非常に沢山ある、月曜日の日がモデルを代へる日である、一週間毎に代へる、大きな学校と小さな学校とは違ふですけれども、一通りの学校でも、月曜の朝は色々な男や女が十四五人位は来る、手本の御用はございませぬかと云ふ訳なんです、之れを一人々々裸体にして見ていゝのを雇ひます、余り宜い奴が沢山来た時には週間を極めて置いて、何月の何番目の週間は誰、其次の週間は誰と書付けて留めて置く様にするのです。
問 どう云ふ種類の人がモデルに為りますか。
答 モデルと云ふものゝ種類は色々あるですけれども、マア重な奴は伊太利人で、親子兄弟詰り先祖代々と言つて宜い位で、モデルを商売にして居る中でも、女は目に附きやすい、衣裳の風が丸で、普通の風とは違つて居ます、袖の短かい白いシヤツ見たいなやうなものを着て頭を色々な色のハンケチの様なもので包んで居る、ナープルの辺の風俗だと云ふことです、一寸絵書きの気に入る姿です、さう云ふ様子をして居る者は大抵親子兄弟皆モデルです。
問 モデルを仕ふのには、どの位な価額で雇ふのです。
答 普通の値段は女が半日ですねへ、詰り昼の一時から五時迄とか、朝にすれば八時から十二時迄とか、女の方は仏蘭西の金で五フランです、詰り一弗です、男の方は四フラン、少し廉いのである、伊太利人の中には今少し安いのも居ます。
問 美醜は論じないですか。
答 モデルだから必ず美だと云ふ事はない、それだから大勢集めて其中から選ぶと云ふ必要が有るのです、十分宜いのは宜い人の所をばかり廻はつて歩く、それでも報酬は大抵変らぬ、併し取扱ひは自ら違つて来る、時々衣裳でも買つて遣るとか、飯なんかも一緒に食ふとか云ふ事に為る、又モデルを妾の様にして居る人もある、それだから上等のモデルは、衣裳も余程立派なものを被て居る、そんな上等なのは学校なんかには決して来ません。
問 それからモデルを学校で、呼ぶ時の様子は何うです。
答 それは一週間毎に更へるものだから、大抵先づ月曜日の朝学校にモデル業の奴が、大勢集まつて来る、それを一々見て極める、見るのには男でも女でもすつぱだかにして、台の上に登ると、それを生徒中が集つて見て、雇ふとか雇はぬとか極める、不合格の奴は裸に為り損で其侭帰り、合格に極まつた奴は、生徒が定めた形で、頭の上に手を挙げ立つて居るとかなんとか、其形を一週間の間は守つて居る、さう云ふと大変苦しいやうですけれども慣れたら苦しくない、又時間の上から云つても、朝八時から十二時迄続けてやるのではない、一時間の中十五分丈けは必ず休む、八時からキツかり始めもしないが、マア八時から始めたとすれば八時から九時迄やつて九時から十五分休む、九時十五分から十時迄やつて十五分休む、さう云ふやうに十五分宛休む、其間は話をして煙草を喫んだり色々なことをして居る、女のお転婆な奴などは稽古の時計中で手本の形をして居ながら、色色な人情話などをして人を笑はせる、それを聴きながらかくのは面白いです。
問 人間のモデルばかりで、動物のモデルは何うしますか。
答 動物のモデルは学校ではやらない、何故かと云ふと学校では腕をこしらへるのが第一で、画は学校以外で出来る獣類などは専門になつてからやつて丁度宜い、学校に一番適して居るのは何と云つても矢張人間の手本ばかりです、それだから学校らしい学校では何処でも人間の手本を使ふのです、人間の上に就てする説明が一番分り易い、木や猫や牛を書いて、それに就て即ち硬いとか軟らかとか、又肥へて居るとか、痩せて居るとか云ふやうなことを言つて見ると、丸で其物の形や質の説明のやうで、かき方の説明としては甚だ分りが遠い、さうして樹木抔と云ふものは、枝などが少し計上に行かうが、下に行かうが、一寸知れない、それだからツイいゝかげんと云ふ事に為りやすい、人間の手本ではそうは行かぬ、首が一分なり五厘なり、体の中心から右か左にはづれる日には大変だ、そう云ふもので目を確かにして来れば宜い、一番人間に就て説明するのが分り易い、それで分らない奴は分らない奴で仕方がない。
問 人間の満足に書けない奴はどうするです。
答 一と通りまで人間の形の出来ない奴は、何に為つても仕方がない、先づくづです、只景色など云ふものは一寸胡魔化しの利き易いもんですから、景色でなりとも名を為さうとする人も有る様です、併し景色などをやる人は皆人間のかけない人だと極める事は決して出来ない、好んでやるのと無拠やるのとは区別しなければならぬ、景色画かきのコローなどは人物も名人です。
問 それはそうでせう、我々が写真を写すに就ても、最も写し易いのは景色、人間の方は光線の工合が始終何うも六ケ敷いです、写真でも人間は進歩しなければ写せない、悪るく行けば化物が出来る、景色の化物は決してない、詰り空気の工合、陰晴の工合でも色々に変はる、それですから人間はさう云ふ風に化け易くなる、矢張り絵なんかもさう云ふものでせう。
答 さうです、人間の形が書いて満足に往つてなければ是は化物だ、化物にも通用はしにくい、人間の形の満足に書いてない程心地の悪いことはない、人間の絵が出来て、まずく出来上つて居る程心地悪く感じることはない、景色なんかは悪く出来上つても、見られぬ程心地が悪いと云ふことはない、まずいと思ふ丈のことで、人間のまずくこねてあるのはたまらぬ。
問 それで油絵ですねへ、油絵にも時代と云ふものがあるだらうと思ふのですが、どの位の時代を経て此位になつて来たのですか。
答 影日なたの付いた画の始まりは随分古いです、希臘の末代即ちポンペイなどの画は、もう影日なたがついて居ます、併し油画と云ふ奴はずうと後に出来た、そうして十五世紀の末頃から十六世紀にかけて、立派な油絵が沢山出来ました。
問 日本で言へば奈良朝時代と云ふ趣があるですね。
答 そうです其十五世紀十六世紀と云ふ処が、伊太利美術の一番いゝ時代です、先づレオナール、ド、ヴアンシイが千四百五十二年に生れ、ミケルアンジユが千四百七十五年、それから例の名高いラフアエルが千四百八十三年に生れたので、此の三人が重に盛んな仕事をしたのです、こう云ふ立派な画かきが沢山出来たのは、つまり時代がさう云ふ人物の出来るやうになつて来た、半分未開で物事を考へるには、先づ形が目の先きに出て来る、そうだと云つて全くの野蛮で無いから、目の先きに出て来る形は優美な形だ、宗教家でもそう云ふ調子で、野蛮時代の形の有る神と、今日の形の無い神とが、先づ云はゞ半分々々で有つた、政治家の方の側でも其通で、新規の社会がこれから出来やうと云ふ処だから面白い、今日の目で見れば其時代の有力家などのした事は、新聞の種などには持つて来いの事計ですが、兎に角立派な家を建て、それを立派に飾ると云ふ事などは、しきりにやつた、羅馬法王のジユル第二世や、又レオン第十世など非常に美術家をたすけて仕事をさしたのです。
問 ラフアエルの画の写真を見ると、仏画体のものが多うございますが、戦争の画でも宗教上に起つた戦争と云ふものが書いてあるのですか。
答 あの時代にはラフアエルに限らず、重に宗教に縁の有る画を沢山かいたのは、日本で彫刻師は仏師だと云ふ様なもんで、ラフアエルなどもつまり耶蘇やマドヌの像をかくのが本職で有つた、おまけに法王の贔屓になつてかいたのだから耶蘇教に関係の有る画が多い、だけれども、今お話した通り、其頃は今日の様に気取つた時代でなかつたから、形や色が立派で、建物に旨くはまる物なら何んでもかいたのです、女や男の裸の多いのも其線の具合やなにかゞ至極装飾に適して居るからです。
問 残つて居るものは何でせうか、宗教の寺があつたから残つて居つたのですか。
答 詰りそうです、其時代の画と云ふものは今日とは違ひ、大抵建築物の飾りだつたのです、立派な寺などが出来たお陰で、画も出来たのです、今我々がやつて居る様に、小さな三尺や四尺位のものをかいて、壁にぶら下げ、友達同志で見ていゝとか悪いとか云つて、それでお仕舞と云ふ様な事ぢやなかつたのです。
問 日本なんかと一轍なんですね。
答 さう、同じことで、どうしても世間で似て、ワイワイ騒ぐものが発達する、世間で以て捨てられた日には、どうしても発達しない事は極つてる。
問 して見ると今宗教的の絵が、少なくなつたのは、どう云ふ訳ですか。 答 それはチヨツト考ても分る、御互に知つて居る者の中で、何かの宗旨を信仰して居る奴は殆んどない、それ丈けでも分る、今日出来る宗教画と云ふものは、宗教の考があつて書くのではない、一寸云はゞ士族の商法で、天窓に無い仕事をするのだからいゝ筈が無い、画と云ふものは色や形が第一だと云ふ事を忘れ、画で理屈を云ふやうな、理屈づめの世の中では、宗教の画は尤もだめだ、理屈と信仰とは敵だし、始末に行かない、キリストの像でもシヤカの面でも、今出来る奴は有難くない、耶蘇が黒んぼうであつたから黒んぼの耶蘇を書く、益々有難くない、白んぼだらうが、黒んぼだらうが、唯有難い我々を救つて呉れる人の絵を書くのだから、成るべく有難いやうに書く、それについちや形も、成る可く完全にやる、色合も出来る丈釣合のいゝ、目にやはらかな様にやれば、或は拝でもいゝものが出来るかも知れないが、今画伯と称して居る連中がこしらへる宗教画は、只自分の力を見せる積でかくのであるから、いやに気取ツたものしきや出来ない、今の人の天窓でいい宗教画を拵らへ様と云ふのは無理です、時勢に適しない、今の時勢は論より証拠で無くつて、証拠より論で、頭がせゝこましいのですからだめです。
問 今の油絵ですが、昔から見るといくらか進歩する方の側に向つて居るでせうか。
答 さうです子、今の開け方と昔の開け方は違つて居る、進歩して居ると云ふことは言はれないだらうと思ふ、併し別に退歩して居ると云ふ訳でもない、開け方が違つて来て居る、つまり日本絵と西洋絵と較べて、どつちが全体美術だらうと云ふ様なもので、どつちも美術で、どつちも各々長所が有るのです、又昔のものも宜いものがあるし、今日書く絵でもさう悪いとは限らぬ、併し今日書くものと、昔書いたのとは天窓の使ひ所が違ふ、西洋絵で云へば絵などのことは、レオナアールの様に優美な、ミケルアンジユの様に厳確な、又ラフアエルの様な素直な線をかいてのけたのは、又とは世に有りません、前にも云ふ通り其時代では画は建築の附属でしたから、人物の配置等総てうつりのいゝ様にやつたのです、今写真めいたごてごて流の画で壁などを飾る人も有りますが、こんな下品なものは有りません、今かく画は大抵皆額で、建築の附属では有りません、其画は皆一ツ一ツ別々に見る様に為つて居るのだから、画一枚丈で或る一つの感を起させなければならない、故に人物の形にしても、芝居流の形をなる可く避けて、自然に近づく様に為り、色合も光線の取具合も、違つて来た、たとへば夏の朝未だ太陽の見へない内に草の上に露の有ると云ふ様な所や、又夕方人の形のモウはつきり見へぬ頃に、はたけ道を百姓の夫婦が睦じく、何か話して行くと云ふ様な所は、ラフアエル時代などの画にあまり無い趣向です。
問 仏蘭西から御帰りになつて、日本の油絵を見て、どう云ふ御感じが起りましたか。
答 私は旨いと思つた、まるで西洋の画を見たこともないで、当てずつぽうにやるにしては旨いと思つた、新派旧派と云ふ事に付て已にお話致しましたが、あの旧派の書き方の方法に依つて行けば、一寸手際の宜いものが出来る、さう云ふものを見たのですから大変旨いと思つた、其代り一枚見れば十枚見るも同じことで変化がない、段々目に慣れて見ると左程上手でない、チヨイと一枚位見た時は旨いと思ふ、兎角に世間見ずでこの位迄にやり付けたのは感心です。 問 そして日本に油絵の出来た始には、司馬江漢と云ふものがあつたそうですが、さふ云ふ人の考は、どう云ふ心持で油絵を入れたものでせう。
答 推察で行くより外に仕方がないですけれども、司馬江漢以前に西洋風の画をかいたのは、私の見た内では、画いたのより西洋の画を模写したのゝ方が多い様です、先づ斯う云ふ和蘭陀の絵があるとか云ふのを見て、是れは珍らしい画だ、真正の物の様に見へると云ふので、影の付いたものを一寸真似て見たのでせう、司馬江漢は一つの見識が有つて、かう云ふ風の画が真正の画と云ふものだと思つて、しきりにやつたらしいです、其後の画と云ふは只前の人が不完全ながら、骨を折て考て置いた画きかたの法丈を、伝へたものと見へます。
問 それからもう一歩進んで、貴所が小督と云ふものを御書きになる御考はどう云ふのですか。
答 あの小督のことは何です、始めて私が京都に行つた時に考へ付いた。
問 始めて京都に行つた時と云ふのは、仏蘭西から御帰りになつて何年程経つてからです。
答 仏蘭西から帰つた年ですが、帰つて東京に二タ月ばかり居つた、それから行つたのです、行く時に友人の久米と一緒に行つた、私は小供の時に本国を出てから、仏蘭西へ行くまでは、東京に居ましたから、東京の風俗は分つて居るが、京都なんかはまるきり知らなかつた、西洋で始終思ひ出して居た日本の風俗は東京の風俗で、東京の風俗はあゝだつた、斯うだつたと思つて居ましたが、京都に行つて出遇はした風俗は、まるきり知らない風俗で、西洋で読んだ西洋人が日本に旅をした時の日記が、今更思ひ当つて、それは吃驚しました、どう云ふ点で吃驚しましたと言へば、風俗が東京と違つて居る、京都に来て始めて日本と云ふ一風変つた世界の、外に在る様な珍らしい国に来た様な心持がしました、先づ旅人として第一番に見物したのは円山から祇園町でした、其処で其祇園町の舞子抔に至つては天下無類ですねへ、実に奇麗なものだと思ひました、西洋人が日本の女は小さな奇麗な鳥見たいなやうなものだと云ひますが、成程奇麗な触はつたら壊れさうな一つの飾物だと思ふ、何しろ珍らしくてたまらない様な感じが起つた、直に此の不思議な人間の写生を始めました、又赤毛布流に彼処に行かうとか、此処に行かうとか云つて、久米と一緒に名所見物もして歩きました、其時にです、丁度あれは何時頃でしたか、矢張り十一月頃でしたらう、私が西洋から帰つた年と云ふのは、戦争の始まる前年ですから二十六年ですねへ、其二十六年の十月の末か、十一月の始でしたが、清水寺辺の景色を写しに行つた序に、アノ清閑寺へぶらぶら遊びに出掛けた、彼処は散歩に大変宜い、行て見ると其処に穢ない坊主が居た、其穢ない坊主は即ち後に私が手本に使つた坊さんです、寺と云ふのは丸で明家同然、庭は草だらけ、破障子の中にもがもがして居る者が一人居る、これも頭が丸い、そうして変にへたばつた様にして居る、能く見ると非常な婆さんだ、これは坊さんの御母さんで八十幾歳とか、九十幾歳とか云ふ年寄、一寸話をしては直に南無阿弥陀仏とやる、親子二人で此の山の中に住んで居ると云ふ次第なんです、全体其坊さんと云ふのが大変孝行者で、此の二人の者が頭を丸めて、此処に住ふ迄には随分難儀をしたそうです、こんな話はあとで聞た事で、先づ其時には穢ない埃だらけの縁側に腰打掛けて、さうして此処はどう云ふ所ですかと話しかけた、さうすると名所図絵に書いてある通りの説明を仕始めた、此処は歌の中山と言つて、陵が向ふにある、二つ陵があつて、さうして其一つの方の陵の垣の中に、小督の局のお墓が有る、こんな事を話したのが、話が上手で、何んだか変な心地になつて来た、まるで昔の時代が其侭出て来るやうな心地がした、其日は其侭帰つた、帰り路で久米にオレハ今の話の時に変な気持になつたと言つたら、己れもそうだつたと言つた、実に不思議だ、之を一つの何かに拵えて遣らうと思つたのです、其時始めて小督を書いて見ることに極めた、極めたと云ふのではないが、何時か話をする所を拵えて見やうと思つた、それで今の舞子だの、田舎者などを引き擦り出して、そうして手を組ませたり、何かして談話を聞て居る場合に拵へた、それが其拵へ始めなんです、其後色々形を変へて見たのですが、ものにならぬですから、其侭にうつちやらかして置いたです、其内に戦は始まるし、又戦場へ出掛けると云ふ事にもなりました、威海衛は落ちて私が日本へ帰つたのは二十八年の二月の中旬過でした、それから間も無く博覧会の仕事をするやうに命ぜられて、京都に止まつた、丁度其頃に西園寺侯が京都に来られて、絵の話が出て何か書かないか、戦争に行つたから戦争の絵はどうだと言はれたから、それは何んですか、是非とも戦争の絵を書かせ度いと云ふお考ですかと聴いたら、それは是非戦争の画をと云ふ訳ではない、何でも良く出来さへすれば宜いと云ふことだ、それならば前から貯へて居るものが、一つ有りますから京都に居るを幸ひ、それを一つかいて見たいと言つた、其処で愈々私があの画に取掛ると云ふ事に為つたのです。
問 で、あれをおやりになつたのは、在来の日本の油絵を書く順序とは方法が余程違つて居るですな。
答 あれが当前の方法なんです、あゝしなくツては油絵は書けぬだらうと思ふ、人間は神様でないから一々写生して、それからそれを画師の考へ次第に直して往かなければ、立派な絵は書けない、それを誰もやらない、目くらへびのたとへの様なものだらうと思ひます。
トこれで、その話が止んで、アトハ雑談に移つた、折から来客もあつたので、予は再訪を約して家に帰つた(二十九年)

(大橋乙羽編 『名流談海』 博文館 明治32年)

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