空気＠湯浅一郎氏出品（しゆつぴん）日比谷晩景（ばんけい）（一八九） 夕陽（せきやう）已に没して乾坤（けんこん）正に暗黒に変（へん）ぜんとする一刹那（せつな）画家の意は空気の研究（けんきう）なる一点にのみ注（そゝ）いで他を顧（かへり）みる暇なかりしものなるべし初秋（しよしう）の夕暮しかも立初（たちそ）めたる水蒸気（すゐじようき）と沈み勝なる夕煙（ゆふけむり）が稍冷（ひやゝ）かなる空気に打混（まじ）りて宏大なる建築物（けんちくぶつ）を包繞したる様（さま）は充分成功したるものといふべし＠和田英作氏筆矢口（やぐち）のわたし（一〇六） こゝは昔は義興朝臣（よしおきあそん）古戦場の跡（あと）なり今は春草萌（はるくさも）へ出でゝ堤上（ていじやう）には若麦さへ秀（ひい）でぬ岸に繋（つな）げる小舟影（かげ）を流水に浸せる菜（な）の花蓮花草（れんげさう）などの緑草の間（あひだ）に点々たるいづれか懐古（くわいこ）の種ならざるべき長閑（のどか）なる春日の暖（あたゝ）かき空気は全幅（ぜんぷく）に溢れて雲雀（ひばり）の声や聴（きこ）えむ花の香（かをり）やせむ＠久光桂一郎氏筆菓園（くわゑん）の春（はる）（九四） 雨（あめ）の翌日なるべし紅花緑芽（こうくわりよくが）こきまぜて日光（につくわう）にかほれる頗（すこぶ）る妙なり殊に湿（しめ）りたる空気の静（しづ）かに霞と共に罩（こ）めたる様に至りては絶妙（ぜつめう）なりといふべし＠黒田清輝氏の高野河原（たかのがはら）の春（一三九） 叡山（えいざん）雪漸く消えて鴨（かも）の水静かに澄（す）めりわづかに色（いろ）づきたる柳は烟（けむり）の如く又霞（かすみ）の如し正に是れ春風（しゆんぷう）春水一時来の概（がい）ありとやいふべき＠同氏の菊園（きくえん）（一二八） 此画（このぐわ）に対して先づ注目（ちうもく）せらるゝは空気のエツフエクトにありものあはれなる秋の末（すゑ）つ方（かた）其日の暮（く）れんとする黄昏時（たそがれどき）さびれたる田園の様（さま）は画家の脳中（のふちう）に一方ならぬ刺撃（しげき）を与へたりと覚（お）ぼし情知（なさけし）らぬ菊商人（あきうど）の鉢植にせんとて引抜（ひきぬ）きたればにや軟（やわ）らかき地面は彼処此処（かしここゝ）荒れ果てゝ取残（とりのこ）されし菊の花五株（かぶ）六株竹をたよりに立（たて）る様（さま）あはれに画（ゑが）かれたり遠く一帯（たい）の森は早や立初（たちそ）めし夕霧（ゆうぎり）に包まれて纔（わづ）かにほの見ゆるは其形美（うつくし）き部分なり空（そら）は水蒸気を含める紅（くれない）の色を浮べ落暉の情は此空にのみにても充分（じうぶん）顕はれたりといふべし筆意（ひつい）亦佳なり菊花（きくゝわ）は画くに二調子位（てうしぐらゐ）を以てし其葉は緑なるが霜枯（しもが）れて茶褐色（ちやかつしよく）に変じたる様を簡単（かんたん）なる筆（ふで）もて説明せられたるは難有（ありがた）し＠岡田三郎助氏の朝（あさ）（一六一） 東天日（ひ）昇らんとして未だ昇らず棚引（たなび）きたる紫雲斜（ななめ）に裂けたり其間隙（すきま）に見ゆる大空（おほぞら）の茜色（あかねいろ）は罩めたる淡靄の中に漲（みなぎ）り流れて青麦の上に宿（やど）せる朝露を黄金色（こがねいろ）に染めなしたる様やさしくも画（ゑが）かれたるもの哉＠小林萬吾氏の風景（ふうけい）（七四） こも亦薄暮（うすぐれ）の空気を研究（けんきう）せられたるものにして前（さき）に挙げたる湯浅氏の（一八九）等とひとしき類（たぐひ）なるべしされど空気（くうき）の醇粋なる点（てん）に於ては彼と稍趣（おもむ）きを異にせるものと＠同氏の風景（ふうけい）（七三） 概してかゝる図様（づやう）のものは写真器械もて撮影（さつえい）したる如き賎（いや）しむべき弊に陥（おちい）りやすきものなるも氏の老手（らうしゆ）なる能く之を避（さ）け細小煩雑たる部分（ぶぶん）は打措て大体を捕（とら）へ得られたるはうれしき限りなり筆（ふで）軽ろく設色見るべし殊（こと）に空気の研究（けんきう）に至ては大に成功（せいこう）したるものといふべし＠設色＠設色（せつしよく）の点に於ては変化（へんくわ）極はまりなく今一々其異（こと）なれる点を枚挙（まいきよ）して之を論評（ろんぴやう）するの暇あらず明快なるあり艶麗（えんれい）なるあり沈着なるあり素朴（そぼく）なるあり十人十種（といろ）とは実に之（これ）をや謂ふべき然れども其明快（めいくわい）艶麗なるものは敢て装飾的（さうしよくてき）調色上便宜の為め単に婦女子の目を悦はせんが為めに明快艶麗（えんれい）なる色彩を弄（ろう）して然るに非ず実（じつ）に自然に感（かん）じ自然を師（し）とし自然の範囲内（はんゐない）に最も着実に写（うつ）されたるものゝ如し沈着なるもの素朴（そぼく）なるものに於ても亦（また）然り今就中其特殊（とくしゆ）なるものを挙れば＠小代為重氏の箱根（はこね）の湖（八一）、岡田三郎助氏のゆるぎ浜（はま）晩暉（一七一）、同ゆるぎの浜の砂原（さげん）（一六五）黒田清輝氏の散歩（さんぽ）（一二七）、同寄せ来る波（なみ）（一三八）、同大磯（おほいそ）鴫立庵（一四八）、湯浅一郎氏の佃島夕陽（つくだじませきやう）（一八六）、同芝浦暮雲（しばうらぼうん）（一八五）、安藤仲太郎氏の東寺（五四）、白瀧幾之助氏の打寄（うちよ）する波（なみ）（一二三）久米桂一郎氏の夏（なつ）の村落（そんらく）（九二）和田英作氏の浜辺（はまべ）の砂原（一一二）同田圃の夕陽（せきやう）（一一四）等其秀（しう）なるものなるべし（未完）
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