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鼎談 「「かたち」の生成をめぐって―イケムラレイコの場合」

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Tree Series 金の使用をめぐって

皿井
 このTree Seriesで、もう1つだけお聞きしたいことがあります。このシリーズで金泥をお使いになっておられますよね。アトリエにおうかがいした時に、金泥をお使いになる、金という素材というのは非常に難しくて、その金を使うことというのは、イケムラさんにとってチャレンジなんだということをおっしゃっていたんです。
 この間の「かたち」シンポジウムの時にも、そこに座っている小林達朗さんが仏画のことをお話になったのですが、仏画を描く仏師さんは、金箔でかたどった文様などを、いかに周囲の色となじませていくのかということに心を砕いていたということをお話になったんです。金というのはそれだけエッジの立つ、インパクトの強い素材であるということで、使いこなすのが大変だということなんです。金をお使いになってみようと思ったきっかけや、また、どういった点がチャレンジで、それをどのように克服されようとしていたのかとか、そういった点について教えていただけますか。

 
イケムラ
 
 金にチャレンジするというのを数年前ぐらいから始めたんですけれども。シンポジウムで聞いた小林さんのお話は、私も非常に心を動かされました。というのは、仏師たちが、私たちの目では見えない細かな表現に心を砕いているという、その当時の、そういった謙虚さと工夫とを指摘された小林さんのお話は非常に私のとっても参考になりました。
 私もおこがましいですけれど、自分なりに金という非常に平面を圧迫するような、中世的にいえば、金で表面の神々しさを高めるために、ある1つの物質的な金を使う。そのことによって奥行きを遮断しちゃうんですよね。では、遮断しないやり方での金の使い方というのを自分なりに工夫しようと考えたのが、この5年ぐらい前からかな。
 
   たとえばそこで墨のなじみだとか、いわゆる今のコンテンポラリーの作家にとってはノーゴールなことにチャレンジしました。セラミックなんかもそうだったんです。私が始めた時は、みんながセラミックなんて現代アートでできないよという感じで思ってた。墨を使った私の最近の仕事なんですけど、いわゆる山水画だとか墨絵ではないけれども、これなんかもそうですね [8] 。2008年ぐらいかな。光ということについて考えていて、光と影。私の場合は色彩も大事だけれども、光と影の対応の仕方というのかな。それについて風景というよりも、光と影が分かれるんじゃなくて、両方の関わり方、両方が一緒になっているという。これなんかも墨と、画面上部には金はほんの少ししか使ってない。左の上のほうが少し金を使ってますけれども、金の粉を使うことによって、べたっとではなくて、墨をしみ込ませながら、金を合わせて、それをまた取って、また合わせていくという。そういう非常にデリケートなにじみ方をつくっていく、空間の広がりをどういうふうにして自分なりにつくっていくのかということについて、いつも頭を悩ませているんですけれど。そういった1つの例です。


8, 山水, Mare e Monti, 2011

素材と身体のかかわりから立ち上がる「かたち」

イケムラ
 
 アトリエで、こういうふうに大きなペインティングをする場合は、床に最初に敷いて、その絵の中に私、入っていくんです。絵の上に乗って仕事できるようにコンストラクションをつくって、キャンバスの中で描くのが最初なんです。その水平性によってにじみだとか広がりとか偶然の要素を取り入れて行きます。最初「かたち」に行く前の一歩というのはそういう行程です。その後、壁に立てて油性の絵具で続けます。
 いわゆる「かたち」をイメージしてから入るのではなくて、漠然とはあるけれども、そこで何かが起こらないと。そういった絵の中にあることによって、自分自身がその風景の中にあるという、雲の中にいるようなんですよね。そこからどんどんとイメージがわいてくるのを、それをとらまえて「かたち」にしていくという。
 最初は床にキャンバスを置いて、自分でも何しているのか分からない。土の場合だと、湿度だとか火の要素がありますよね。ジュートだと、そのしみ込みだとか。もう1つは大きさですよね。大きさはそれで勝負するという気持ちは全然ないけど、大きさによって自分のコントロールが利かないんです。だって見えないですから。いくらやったって向こうには手が伸びないから。
 モノ派の人も、具体の人たちは、こんな大きなブラシで、あれはあれで頼もしいけれど、私の場合は迷子になるようにして、そこで何が起こったのか分からないけれど、自分の体と一体になるような感覚。それからキャンバスを立ててみると、いろんなアソシエーションとかイメージがわいてくるわけ。そこから「かたち」づくりが始まる。でも、それも全部決めたくないんです。あいまいにしておく。

 
山梨
 最初にイデアがあって、それをモノ化するということではなく、最初は、うつろがあって、関係をもちたいというそういうのがあって。それからやっていく中で「かたち」が立ち上がるということですか。

 
イケムラ
 
 今日の鼎談だってそうだと思うんですよ。昨日の講演だってそうだったし。いくら準備しても何かが違う、考えたようにはいかない。だからもう空白にして、その場でできることをやる。そういう、空っぽじゃないけど、いわゆる無の状態というのは難解だけれど、でも、何かそこで起きる。だから、自分でもいろいろと考えてノートなんかにまとめても、それを読み上げるのは、私の場合はあまり自分の性格に合わないだろうなという。もちろん研究者の方たちが準備されたちゃんとした論文を読み上げられるのはそれはそれで面白いと思うんですけれど。でも私の場合は、また違うやり方があるだろうと思います。こうした対談や講演も絵を描くように、あるいは物をつくるように、皆さんと接触してもいいのかなと考えています。

 

メディアの選択

山梨
 絵画の場合は、絵画空間の中に重力を無視して行くことができますけれども、立体と平面、両方なさいますよね。絵画は平らにしてつくり始めるという、造形がよく分かった気がしたんです。キャンバスを立てると、必ず重力に従う浸潤というのがあるので、どうしても上下のにじみというのが出ると思うんです。それがなくて、ボワアってこうなるので、その秘密がすごくよく分かったんですが。  
   これ、「うさぎ寺」 [9] ですけれども、このためのデッサンだとか、全く別物としてあるものなのか、立体を目指して描いたものなのか。立体と、少女もそうですが、同じモチーフを立体にしたり平面にしたりなさいますね。立体と平面をどのように選び、何を目指すのかというのは、いかがでしょうか。


9, うさぎ寺, Hare-Temple, 1991


10, 二羽の鳥をかかえた黄色い服,
Yellow Dress with 2 Birds, 1996

イケムラ
 
 メディアを選ぶというのは結構難しい。どのメディアが合っているかということもやってみないと分からないところがありますよね。メディア自体の法則というのがあるから、たとえばうさぎのかたちを発想して粘土を使ったとして、そこに重心が非常に下がってくると、それに沿ってつくっていくしかないという。メディアの法則そのものがもっている法則に従ってもいいという。土は重さがあるので、重心がどうしても低くなる。
 重心が低くなるということ自体が面白いと思ったのは、ドイツのベルリンに住んでいるんですけれど、北のほうだから人間がひょろ長いんですよね。でも足の短い人種というのは重心が地面に近く興味深いと思って、トウソク人像を作ったのね [10]
 というのは、戦いだってそうだし、重心を下げないと相手に向かえないんですよね。何かをする時は、やっぱり重心を下げないと浮いちゃうんですよ。そこがちょうど面白いところだなと。今の時代って重心から去ろうとするでしょう。たとえば飛行機に乗って旅行するのは当たり前になってしまった。
 何か地面からどんどんと離れようとするから、その反対に、もっと土に近づきたいという本能は誰でも持っていると思うんです。土に近づいて、そこからふっと浮くというのは、宇宙的精神性というのかな。非常に重心を下げて、動物に近いぐらいの視点というのは面白いじゃないですか。救われるというか。高く行けば行くほど、本当に崇高なのかというと、それだけじゃない。
 これは20年前の作品だから、その時に考えたことを今思い出しているわけですけれど。現在の仕事内容と違うけれども、でも基本として、たとえば私の場合の彫刻というのは、いわゆる彫刻家の有機的関心ごとではなくて、器的なものを考える。私たちの体のイメージというのは、私にとっては器なの。
 故郷に帰ると感じるのは、瀬戸物に人生を懸けている作品の素晴らしさは器じゃないですか。器から変形した人体というのかな、人間の命というか、そういうのが1つの発想の根源です。

皿井
 器の話ですが、少女のうつろというのが非常に重要。器というのは何かを入れる。

イケムラ
 
 そうですね。うつわとうつろと関係しているかもわかんないですね。器はこうやって空いていますよね。少女の彫刻をやっていた時に、うつろがもっと見えるような感じにしたかった。そうすると、少女の像を倒した時の姿にとても興味あったんです。体自体が空洞であるということは、つくり方自体がそうであって、発想の問題ではなくて、私はよく言うんですけれど、無ということが、あるということと、ないということはひとつながりだと思うんですよね。よく彫刻家の人たちは、何かのかたちをつくって、その材料の密度で存在を示すわけですけど、私の場合は無から始まって、無に沿って、空白に沿ってかたちができてくる。
   これも人の右のほうは空いてますけど [11] 、実際に下からどんどんどんどん積み上げていって、ぐにゃっとなる瞬間まで仕事をして、また時間をおく。自然にそういうふうにしてつくり上げるんだけど。物質のもっている法則みたいなものは仕事をしていて気がつくことであって。そのうつろという無というか、空白、空間のもっている頼りなさみたいな、それに沿って「かたち」ができてくるという、それが私の場合、彫刻の。彫刻じゃないんですね。彫塑ですよね。


11, 鳥を持った二重の像,
Double-Figure with Bird, 1998/2006


12, 東京国立博物館での展示風景,
Leiko Ikemura MOMAT Show, 2011
山梨
 塑像ですよね。穿っていかないんですよね。

イケムラ
 
 ええ。
山梨
 つくっていくと包まれるようになるというか、そういうふうな感じがするんですよね。刻んでいかないという。

イケムラ
 
 これもそうですけど [12] 、みんな向こうの人によく聞かれるの。何で頭がないの。頭がないんじゃない。そうじゃなくて、うつろをうつろに表現させる。「それは女性のフィギュアか、日本の女性は頭がないのか」、そんなことを聞かれます。「そうじゃないですよ」と答えるんです。

山梨
 ジェンダー論的には、いろいろ、スカートの下がうつろであるということについても、もろもろ議論はあるところだろうとは思いますけれども。


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