|
橋本邦助 (洋) 昭和28年1月7日没 |
初期文展に活躍し、昭和7年第13回帝展からは無鑑査となつていた橋本邦助は昨年来脳軟化症で療養中であつたが、1月7日文京区の自宅で死去した。享年69歳。明治17年1月栃木県に生れ、白馬会研究所に学び、さらに同36年東京美術学校西洋画科選科を卒業した。欧州に二度外遊している。主観的な表現をさけその外面的描写技術は当時としては非常に秀れた作家であつたが、対象の内部まで入ろうとする力には欠けていた。明治40年第1回文展から続けて3度入賞し、その後も官展に出品を続けていたが、近年は振わなかつた。 作品略年譜
|
|
上田直次 (彫) 昭和28年2月21日没 |
元文展無鑑査の彫刻家上田直次は2月21日肝臓癌のため郷里広島県賀茂郡の自宅で逝去した。享年72歳。明治13年郷里で当地第一人者といわれた宮大工を父として生れ、早くから彫刻家としての才能を示していた。27歳の時単身上京し、望月圭介の被護をうけ、また旧藩主浅野長勲侯に認められ、困苦のうちにも彫塑に励んだ。木彫を山崎朝雲に、塑像を朝倉文夫に学び、官展で名を現わした。 昭和11年にはドイツ人フォン・ウエグマンに認められ、独仏に紹介されたりした。晩年は殆んど中央の美術展に出品せず、仏像の制作に励み、また広島県美術展の彫刻部発展に尽力した。展覧会に発表した以外の作品に、厳島神社豊太閤(大正8年)、望月圭介胸像、浅野長勲侯胸像、元帥加藤友三郎銅像(広島)、大池忠助銅像(釜山)、沢原為綱銅像(呉)、亀田多吉銅像(安浦町三津口)等がある。 略年譜
|
|
九里四郎 (洋) 昭和28年3月1日没 |
洋画家九里四郎は3月1日長野県飯田市飯田病院で胸部疾患のため死去した。享年67歳。明治19年東京に生れ、学習院から明治43年東京美術学校西洋画科を卒業した。池部鈞、藤田嗣治、近藤浩一路等と同級で明治44年欧州に留学した。在学中すでに明治40年の第1回文展に「霧の榛名野」が初入選となり、同41年の第2回文展には「蔵」が入選、3等賞となり、43年第4回文展の「老人」も3等賞となつた。然し帰朝後は官展風の自然描写を棄て、強い主観的表現をとる様になり、文展内に於ける二科制設置運動に加わつたが当局に容れられず、官展を離れた。大正3年二科会創立に際してその鑑賞委員に選ばれたが辞退し、第4回展に「庭」「静物」他4点を出品した。その後も二科会に出品していたが、のち料理屋を経営したり、風物を描きながら生涯を送つた。 |
|
矢崎美盛 (学) 昭和28年4月7日没 |
東京大学文学部教授文学博士矢崎美盛は、4月7日胃癌のため世田谷の国立第二病院で没した。享年58歳。明治28年山梨県東山梨郡に生る。大正5年第一高等学校を、同8年東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。同12年ドイツ、フランス、イタリア等に留学し、同14年法政大学教授、同15年東京帝国大学文学部講師となつた。昭和2年九州大学法文学部助教授に任ぜられ、同10年教授に進み、この間、同3年ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ等に留学した。同16年京城帝国大学教授を兼任した。同23年東京大学教授に転じ、九州大学教授を兼ね、美学、美術史を担当した。また皇太子殿下御進講を嘱託され、大正大学、東北大学、法政大学、早稲田大学の講師となり、後進を指導した。著書に「様式の美学」(創元社)、「芸術学」(弘文堂)、「少年美術館」(岩波書店)、「マリアの美術」(岩波書店)、「絵画の見方」(同上)などがある。 |
|
宮坂勝 (洋) 昭和28年4月10日没 |
国画会会員、同会理事、武蔵野美術学校教授宮坂勝は国画会出品作を制作中脳溢血のため、大田区の自宅で死去した。享年58歳。 略年譜
|
|
保尊良朔 (日) 昭和28年4月22日没 |
本名良作。明治30年3月5日、長野県南安曇郡に生れた。日本美術院研究所に学び、大正11年日本美術院第9回展に「石灰焼」が初入選となつた。この頃は霊水の号を用いていた。その後、大正14年第12回院展に「柿若葉」、昭和3年第15回院展に「石花菜を乾す」、昭和8年第20回展に「鯉」(この時頃から良朔の号を用う)、昭和10年第22回展に「鵜籠」を出品している。日本美術院の試作展にも出品し院友となつたが、昭和12年9月日本美術院々友11名と共に同院を脱退し新に新興美術院を結成し同人となつて活躍した。同展に「石仏」「競馬」「馬二題」「舟正月」「あぐり舟」を発表、昭和25年更に、新興美術院同人中同志5名と共に再興新興美術院として発足、毎年春秋二季の展覧会を開き、「七面鳥」「早春風景」「明神池」等を発表していたが、4月22日逝去した。享年56歳。 |
|
吉田苞(しげる) (洋) 昭和28年4月27日没 |
光風会々員吉田苞は4月27日岡山市の自宅に於て十二指腸潰瘍のため逝去した。享年70歳。明治16年4月岡山市に生れ、同41年東京美術学校西洋画科を卒業後は終始官展に出品をつづけ、又光風会々員として同展にも作品を発表した。岡山県美術協会々員、大原美術館理事でもあつた。 略年譜
|
|
国吉康雄 (洋) 昭和28年5月14日没 |
米国に於いて国際的作家としての地位を築いた日本人画家国吉康雄は、5月14日ニューヨーク・グリニッチヴィレッジの自宅で、胃潰瘍のため死去した。享年59才。1893年(明治26年)岡山市の商家に生れ、小学校卒業後工業学校で染色を学んだが中退して、1906年13才の時英語習得の目的でアメリカに渡つた。 憧れの新天地も少年の夢からは遙かに遠く、鉄道掃除夫、ボーイ、運搬夫等の仕事に従い乍ら、英語を学んでいたが、数カ月にしてロスアンゼルス美術図案学校に転じた。ここで3カ年勉強をつづけ、その後紐育に移り、ナショナル・アカデミー・スクール、インデペンデント・スクール、アート・ステューデント・リーグ等に学ぶ。この間アート・ステューデント・リーグに於いてケネス・ヘイス・ミラーに友好的指導を受けてその画才をのばし、又多くの知友を得た。インデペンデント展、ペンギン展等に出品し、又1922年にはダニエル画廊に第1回の個展を開き、その後連続8回に亘り開催した。この頃の作品に「牛をつれる子供」「夢」等がある。1925年ヨーロッパに渡り、フランス近代絵画の影響をうけた。この渡欧を境として従来の素朴な空想的様式の時代を終り、次第に欧羅巴の近代絵画の要素が入り混んできて変化している。1928年再渡欧し、ユトリロ、スーチン、ピカソ等に深い感銘を受け、多くのリトグラフの制作をした。翌年紐育に新設された現代美術館に於ける「十九人の現存アメリカ作家展」の一人として選ばれ、この頃より彼の存在は漸く確かなものとなり、アメリカ現代美術展には殆ど参加し、1931年にはカーネギー・インスティチユートで受賞した。 同年病父を見舞うため日本に帰り、東京と大阪で個展を開き、携えてきた油彩と、版画数十点を展示した。併し当時の日本画壇におけるアメリカ美術蔑視の風潮と彼の一見地味な作風から大した反響も得られず翌年★々日本を去つた。この前年二科会々員となつた。帰国後のアメリカ画壇に於ける制作以外の活動も目覚しく、アメリカ美術家会議国内執行委員、展覧会委員会議長、アメリカ美術家会議副議長等の任にあたつて活躍した。又1948年紐育ホイットニー美術館で現存画家のための最初の企画として「国吉回顧展」を開催、米国各地の美術館、画廊、愛蔵家より集めた作品百数十点を一堂に集め、非常な好評を博した。亡くなる前年にはヴェニスのビェンナーレにアメリカ代表の四人の画家の一人として選ばれる等、アメリカ美術界に於ける栄誉は最高の位置に達し、30余年に亘るその足跡は日米美術界に永く明記されるべきものである。 作品は初期の空想的要素の多い地味なものから、晩年の鮮やかな色彩を加えた、生活感情の深い象徴ともみられる表現へと幾多の変化をみせているが、画面はどこか悲痛な哀愁と静寂をただよわせ、晩年の華やいだ色彩のかげにも東洋人らしい虚無的思想がうかがわれ、それらがアメリカ風の大まかな味と混り合つて特異な国吉芸術を生み出している。 略年譜
|
|
漆原木虫 (版) 昭和28年6月6日没 |
版画家漆原木虫は6月6日肺臓癌のため国立東京第二病院で死去した。享年64歳。告別式は世田谷区の自宅で行われた。名由次郎、明治21年東京に生れた。早くから木版彫刻の技術に習熟しており、19歳の時渡英、1910年の日英博覧会の折にはロンドンにいて、展覧会場において木版技術の実演を行つた。その後30年間ロンドンとパリに滞在して多くの版画を作り、日本の伝統的な木版技術による作品はイギリス、フランスの愛好家に好まれた。イギリスの画家フランク・ブランギンに認められ、彼の画を木版にした。自画、自刻、自摺の作品はヨーロッパでは暖く迎えられ、鑑賞された。大英博物館の嘱託にもなつた。昭和9年日本に帰り、帰朝後も版画を作つている。日本での作品には西洋の愛好家に特に評判であつた風景にも匹敵する馬や花の静物が含まれている。それらは白から灰色を通して深い黒い列なる階調に独自の美しさをみせている。しかし赤、緑、青と色彩を効果的に用いた「椿」のような作品もある。外人に木版を教え、また戦後は米国に作品を送つて、日本よりもむしろ外国で著名な作家であつた。 |
|
小室達(とおる) (彫) 昭和28年6月18日没 |
日本陶彫会々員小室達は6月18日肺浸潤のため逝去した。享年53歳。杉並区の自宅で告別式が行われた。
|
|
内田巌 (洋) 昭和28年7月17日没 |
新制作協会油絵部会員、日本美術会委員内田巌は7月17日食道癌のため東京世田谷の自宅で逝去した。享年53歳。明治の文芸評論家として著名であつた内田魯庵の長男として東京に生れ、東京美術学校西洋画科に入つて藤島武二に学んだ。大正15年同校卒業後は帝展、光風会等に出品していたが昭和5年渡欧、パリのアカデミー・ランソンに学んで7年に帰国した。昭和10年帝展改組の際に猪熊弦一郎、伊勢正義等と新制作派協会を設立して、最後まで同会々員として活躍した。終戦後は進歩的な美術家によつて結成された日本美術会の主要メンバーとなり、また23年には日本共産党に入党して党員となつた。27年頃より食道癌におかされ、入院、手術を受けたが、遂に回復しなかつた。主な作品に「若きハンガリー人」「岩」「母の像」「(東宝争議)歌声よおこれ」等があり、又文章もよくし著書に「絵画の美」「物射る眼」「画家と作品」「人間画家」「ミレーとコロー」「絵画青春記」「ミレー」「絵の上手な描き方」等がある。 略年譜
|
|
円城寺(えんじょうじ)昇 (洋) 昭和28年9月14日没 |
創元会々員、日展出品依嘱者であつた円城寺昇は9月14日世田谷区のアトリエで脳溢血のため逝去した。享年52歳。 略年譜
|
|
上阪雅人(こおさかがじん) (版) 昭和28年9月18日没 |
木版画家上阪雅人は、明治10年5月10日御所書林、上阪庄次郎の次男として京都で生れた。山元春挙に師事し、19歳の折、第2回内国勧業博覧会に初めて花鳥画が入選受賞した。その後、図画教員をつとめていたが、30歳で上京し、白馬会洋画研究所で改めて洋画を学んだ。大正10年頃からは、木版による創作版画をはじめ、日本版画協会展に出品していた。また、図画教育についての関心もつよく、昭和5年の頃、文部省嘱託となり、啓明会から図画教育に関する研究の助成をえて、数冊の著述も遺している。作品は、春陽会、図画会、日本版画協会の展覧会に発表していたが、第二次大戦で罹災、全作品を焼失し仙台に疎開した。24年米国第9軍師団、ライダー司令官夫人の紹介で、ロスアンジェルスで個展を開き海外で注目される端緒となつた。25年1月上京し、26年にU・S・A・エデュケーションセンター、27年には仙台市、及びパリのチェルヌスキイ美術館で個展を開いている。晩年は抽象的傾向にうつり、墨刷の力強い作品をのこしているが、国内ではまとまつた展観の機会に乏しく、むしろ海外で好評、注目をうけていた。なお没後、31年にパリ、ニューヨーク、ウイーン、ローマ、等に於て遺作展が開かれた。 |
|
樺山愛輔 () 昭和28年10月21日没 |
日米協会長、国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長樺山愛輔は、10月21日神奈川県の自邸で脳動脈硬化症に気管支肺炎を併発死去した。享年88歳。慶応元年故海軍大将伯爵樺山資紀の長子として鹿児島に生れ、若くしてアメリカ、ドイツに留学、壮年時代は実業界で活躍した。のち貴族院議員、枢密顧問官となり、また国際文化振興会、東洋美術国際研究会等の理事長として日本文化の海外紹介に尽し、戦後は社会教育事業のためグルー基金の創設や国際文化会館の建設に尽力した。また、黒田清輝の縁故者として美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)の創立と発展につくした。 |
|
跡見泰(ゆたか) (洋) 昭和28年10月22日没 |
光風会々員、跡見学園理事、跡見泰は胃潰瘍で療養中であつたが10月22日浦和市の自宅で死去した。享年69歳。東京美術学校卒業後、白馬会々員となり、白馬会解散後は光風会を創設した。初期文展には続けて受賞し、昭和7年以後は帝展無鑑査、日展には出品依嘱者として出品していた。 略年譜
|
|
赤松麟作 (洋) 昭和28年11月24日没 |
関西洋画界の元老であつた赤松麟作は11月24日、大阪市天王寺区の自宅で喘息のため逝去した。享年75歳。岡山県津山に生れ、東京美術学校西洋画科選科を卒業、更に研究所に学んだのち、三重県や和歌山県の中学教員を暫くつとめた。この間、白馬会出品の「夜汽車」が白馬会賞となり注目をうけた。その後は大阪朝日新聞に勤務、或は大阪市立工芸学校、関西女子美術学校に勤める傍ら、文・帝展に出品をつづけ、つねに関西洋画壇の育成に尽力し、晩年には大阪府より知事文芸賞をうけた。 略年譜
|
|
狩野光雅 (日) 昭和28年12月17日没 |
日本画家狩野光雅は昭和28年12月17日死去した。享年55歳。本名政次郎。明治30年和歌山県に生れ、大正8年東京美術学校日本画科を卒業、松岡映丘に師事した。同10年新興大和絵会結成に際して、これに参加し、解散まで出品をつづけ、主なものに「雨後落日」(3回)、「清晨静境」(5回)、「高野草創」(7回)等があり、昭和6年より帝展に作品を発表し、第12回帝展「紀ノ国の春」、第14回「飛爆」(特選)、昭和11年鑑査展に「雨後」等がある。昭和13年国画院結成に参加し、第1回展に「冬の陽ざし」(二曲半双)を出品した。作品はその経歴にみられる通り、伝統的大和絵画法を用い、壮大なモチーフを扱つて、追力ある力強い表現をみせた。 |