ブックタイトル未来につなぐ人類の技17 煉瓦造建造物の保存と修復

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概要

未来につなぐ人類の技17 煉瓦造建造物の保存と修復

を残して全焼したが、武田五一によりコンクリートによる補強・補修が行われた先駆的な例である(西澤、金多1989-2、p.75)。そこから時代は下るが、室内側に鉄筋コンクリートの耐震壁を構築する手法は重要文化財旧近衛師団司令部庁舎(写真1)でも用いられた。明治43年に建設された本建物は、昭和52年に改修を受けて、東京国立近代美術館工芸館となった。この際に、防犯防火と間仕切壁撤去による展示室拡張のため、内部に煉瓦壁と一体化させた鉄筋コンクリート壁を設置し、基礎はべた基礎として、不同沈下に備える工事が行われた。これについては、下記のような証言がある。「あれは壊す予定でした。それを残して近代の美術館にすると、谷口先生と建築家協会とか建築学会の方が佐藤栄作さんに談じ込んで、閣議決定で壊す予定になっていたのを覆した。そういう例はないのです。だから、その意欲をどういうふうに表現するかというのがいちばんの問題。それと同時に、あれは田村鎮さんの作品ですが、あの時代の官庁建築の一つの典型で、将来これを残して、それがさらに彼のためにもよかったということにしなきゃいけない。それをどのように持っていくのかの考えをもつことがいちばん大きかった。技術的な問題はそこから先の問題で、23.6mの間で、25cmも沈下しているわけですから、それをどうしよう。外壁は全部保存です。真ん中、玄関を入ったところの1階、2階は保存が重文としての絶対条件で、美術館としてあとは改造してもいいということになったんです。そういうことがきまって玄関だけはちゃんと残して、あとは壁を全部考え方として取る。というのは、壁面が全部割れているんですよ。関東大震災のため各壁がみんな独立して、ひどいところ、矩折の壁のコーナーなどは10cmぐらい隙間がありましたからね」(巻頭座談会(1989)、p.34)鉄筋コンクリート壁が設置された背景には、技術的な課題として、煉瓦壁面の沈下・割れ対策、そして美術館として活用することがあり、その結果、建築家の思想を残すため、選択的な保存とされたことが伺える。その後、昭和51年に修理された重要文化財同志社ハリス理化学館でも、鉄筋コンクリート壁による補強が行われ、基礎にスチロール層を設けて壁による重量増の沈下対策がとられている。しかし、それ以降、煉瓦造の重要文化財では、鉄筋コンクリートによる補強は積極的に行われていない。その理由は、煉瓦造建造物内に新設建物を構築するため、内部はあきらめざるを得ないこと(矢谷1998、p.118)や、可逆性と煉瓦壁の保護の観点から重要文化財では使用範囲が限られること(長谷川2012、p.69)、あるいはそもそもの問題として、白華現象により煉瓦壁に対して破損を生じることなどがあげられる(松尾ほか2005、p.23)2。鉄筋コンクリート補強は、最初期に取り組まれた補強であるため、その後、鉄骨による煉瓦補強など、多様な補強方法が検討されはじめた時期に、多くの欠点が指摘されることとなった。3.2.鉄骨補強建物内部に壁から独立した鉄骨フレームを設けて、外壁を支える補強方法である。今日では数多くの文化財で用いられているが、その出自は、当時主流だった鉄筋コンクリートによる補強方法に対して、新たな補強方法を模索した成果である。鉄骨補強が着想されるにあたり、煉瓦造の構造の考え方を建設時に立ち戻って理解し、関東大震災時の被害状況から耐震性の改善点が探られた。そして、新たな補強方法として昭和54年に重要文化財同志社彰栄館(写真2)で実施された経緯がある(細野1982、p.54)。利点は、煉瓦の内壁側を保存できること、乾式工法の写真1旧近衛師団司令部庁舎(現東京国立近代美術館工芸館)写真2同志社彰栄館23