近代建築に使用されている油性塗料

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近代建築に使用されている油性塗料

近代建築に使用された油性塗料の変遷  47本ペイント百年史』(日本ペイント株式会社))。さらに明治4年(1871)からの新政府による遣欧使節団の記録『特命全権大使米べい欧おう回かい覧らん寔じっ記き 』に鉛精錬所の視察記録があるが、白鉛の応用製品として、精製した白鉛粉を別室に送り、研磨し乾性油を混和する。これを白鉛漆粉といい、白鉛漆粉には「ペンキ」と仮名が振られている。要するに、初めて見る「油性塗料」と日本古来の「漆」の区別が明確でなく、混同されたのだろう。本論では、木部塗装、鉄部塗装、外部塗装、ワニス塗り、木目塗り、漆喰ペンキ塗り、フレスコ塗りや塗替え工事等、当時行われていた塗装工事全般にわたり、仕様工程や塗布回数、施工注意事項までをも詳細に示している。塗料については「鉛ペンキ」の材料と調合が示されている(資料3)。調合は、建築物の種類や施工時の気候など現場に応じて、正しく行うこととしている。亜麻仁油は木材に浸透し、木の腐食を抑え、酸化重合し塗膜となるものである。リサージその他ドライヤーは油分発散を早め、ペンキを速やかに乾燥させるものである(ドライヤーに油の酸化重合促進の触媒作用があることは明記していない)。光明子(赤鉛Pb3O4)を下塗りに使用するのは、乾燥が速く造膜するためである。松脂油は塗装施工性を良くするためであり、蒸発して塗膜には残らない等の説明をしている。この塗料調合例や各種塗装法の詳説から、当時の塗装技術は塗料調合や調色、下地拵こしらえなど、塗装に関わる職人の固有技能であったことがわかる。当時の建築生産体系は、主に直営かつ分業請負であり、建築家の指導及び監督のもとで作業していたようだが、作業者の評判は必ずしも良くなく、むしろ手抜き、ごまかし等の悪評も流布していたようである。明治40年代に発刊されていた塗料業界紙『ペイント時報 第30号』(ペイント時報社)にも塗工業者に望むと題する寄稿が多く寄せられ、多くが塗工者の塗料に対する知識の乏しさを指摘している。塗装の需要が増え、新しい職種としてスタートした塗装業にとって、当時は暗闇に船出した試練の時期であったであろう。大正12年(1923)に建築学会で「建築工事仕様書」が設定され、塗装工事は塗師工事として示されるまでの間、「ペンキの説」は建築、塗装関係者にとっては貴重な教科書となっていたのである。7.国産塗料の製造近代塗装が勃興し、西洋塗料の輸入に依存していた状況の中、明治14年(1881)に国産塗料製造会社である「光明社」(現 日本ペイント株式会社)が誕生した。亜鉛華の研究と開発からスタートし、亜鉛華、光明丹(鉛丹)、固練りペイントの製造が始まった。明治30年(1897)には白色の高純度99.97%の亜鉛華の製造に成功し、「亜鉛華製造法」の特許(第85号)を取得するに及び、ボイル油の改良と共に、固練りペイントの品質は輸入品と同等の品質にまで向上した。その後、海軍省や鉄道省の支援もあり、国産塗料会社は増加し、明治末には19社が存在していたといわれ、国産塗料の生産は増加し始めた。特に明治39年(1906)の関税法の改訂により輸入税が倍に引上げられたことは、国産塗料の増加に起因している。塗料の需要量の推移を見ると、明治末には国産塗料が輸入塗料を上回っている(資料4)。資料3 「鉛ペンキの調合」 内部高級仕上げ塗装の塗料調合例塗装工程白しろ鉛なまり光こう明みょう子し 生亜麻仁油リサージ/ドライヤー松まつ脂やに油あぶら下 塗3貫3百60目21匁もんめ2升8合42匁―二度塗――1升5合42匁1升1合三度塗以上――1升4合42匁1升4合