近代建築に使用されている油性塗料

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近代建築に使用されている油性塗料

46風化の推進によって、日本全国に煉瓦造や板張りの洋風建築が建設され、油性塗料で彩られたのである。150年後の現在、補修工事や復原工事により当時の姿で現存している明治建築は多数ある。特に、「博物館明治村」(愛知県)に移築された諸建築からは、建築物は勿論、明治時代の社会状況が彷彿され、感銘を覚える。日本赤十字社中央病院病棟(明治23年(1890))に施された色彩調節、旧三重県庁舎(明治12年(1879))の木製扉や額縁、窓枠に施された木目書き等、現代と同様の仕上げが既に行われていたことに驚嘆する(写真3?6)。残念なことに、当時の塗装仕様や工法等を示す資料は少なく、確定には至らないが、明治39年(1906)2月の建築雑誌230号に掲載された鉄道建設に関する文献(『鉄道建設と塗装』(大おお島しま盈みつ株もと))に、駅舎の鉄部塗装に関する塗装仕様が記されている(資料1)。なお、使用塗料の成分は不明である。また、明治9年(1876)に建設された旧開智学校(長野県)の塗装費用内訳である、『開智学校新築使用帳』が残っている(資料2)。ちなみに、「チャン塗」とはタール(アスファルト、ピッチ等)塗りを指し、防水機能があるため古くから用いられ、塗料の代名詞にもなった時代もあった。ところで、明治17年(1884)の東筑摩中学校(長野県)の建築諸入費控簿でも、油性塗料塗りが示されている。塗装工事は塗師とペンキ塗師とに区分され、手間請負で行われた。塗師は研粉塗と渋塗りを行い、ペンキ塗師(横浜の中野政平氏)は生徒口玄関表門扉4本を油性塗料で仕上げている。わざわざ横浜に居住する塗装工に施工を依頼したのは、地方にはまだ油性塗料を扱える職人がいなかったからであろう。以上、明治初期の塗装工事の一部を示したが、当時の文献情報は少なく、実態を把握し得ないが、明治20年(1887)に造家学会が発行した『建築雑誌第五巻』に掲載された滝大吉氏の「ペンキの説」と題した論説は、当時を代表する塗料及び塗装の解説書ともいえるもので、多くを知ることができる。6.「ペンキの説」論説は「論説及報告」から始まり、西洋ペンキを用いた塗装工事が次第に行われ出し、白色ペイントで塗装し、素晴しい白壁に仕上げられていた高層建築物が、数ヶ月のうちに劣化してしまう事例が多かった。その原因は、ペイントの特性や施工法などを十分に理解せずに塗装しているところにあり、塗料及び塗装の知識を広く理解させるために執筆したと述べている。さらに塗装の目的は物体の保護と美装であり、「ペンキ」という言葉は英語のPAINTが転化したもので、全ての塗料をあらわす言葉であると明記している。「ペンキ」という語は、明治初期には既に使用されていたようである。明治4年(1871)8月3日の横浜毎日新聞に「御国商人積出、ペンキ4缶」との表示がある(『日塗装工程使用塗料一回目 錆止め塗り赤ペンキ二回目 仕上げ塗り青ペンキ資料1九拾九本 入口戸ペンキ三度塗壱式 代 四拾九円五拾銭 壱本代五拾銭三百拾九ヶ所 窓枠ペンキ三度塗壱式 代 九拾五円七拾銭 一ヶ所代参拾銭九拾弐ヶ所 入口ノ枠ペンキ三度塗壱式 代 三拾七円八拾銭 一ヶ所代四拾銭七拾四本 窓ガンギ戸ペンキ同断 代 拾四円八拾銭 壱本代弐拾銭壱ヶ所 櫓ペンキ塗同断 代 弐拾円弐ヶ所 玄関屋根 チャン塗 代 壱ヶ所代 壱円五拾銭六拾五本 硝子障子ノフチペンキ三度塗 代 八円十二銭五厘 壱本代拾弐五厘資料2