近代建築に使用されている油性塗料

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近代建築に使用されている油性塗料

近代建築に使用された油性塗料の変遷  43の大阪造幣寮の応接所(泉せん布ぶ 観かん)はじめ、明治初期の居留地建築によく現れる様式と共通しており、油性塗料が塗られている(写真2)。異人館建設当時の資料記録に、「島津家にて工場の西端に英人技術者の住居として、白ペンキ塗木造二階建西洋館を造り遠来の珍客に対し百万優遇に努めたり」(『薩摩の文化』(鹿児島市教育委員会))とあり、激動する幕末に西洋の油性塗料が使用されていたことがわかる。以上のことから、日本における油性塗料の創始については、幕末の開国から明治維新にかけて、国を挙げて近代化や西洋化が進められ、西洋の建築技術の懸命な摂取により西洋風建築が建ち並ぶようになった近代建築発祥の頃とするのが妥当である。3. 近代化及び西洋化の建築技術を受け入れた二つの系譜近代化、及び西洋化へのスタートの中核を担った建築文明(技術)の受容には、二つの立場と姿勢があると、村むら松まつ貞てい次じ 郎ろう先生が、著書『日本近代建築の歴史』で指摘している。その一つは、西欧の建築技術に主眼を置き、習得することを以って日本建築の近代化とする技術至上主義のお上の系譜、もう一つは、民間の大工棟梁達が見よう見真似で西欧建築を学習し、もっぱら西欧建築の姿、形に最大の関心を示した、いわゆる民の系譜である。技術受容の本流は、政府主導のお上の系譜によるもので、外国人技術者を雇用し、導入に努めた。既に幕府や諸藩で雇用していた外国人を引続き雇用する以外にも、諸外国から新たに多数の技師を招き入れた。建設に関する政府事務管掌は、明治7年(1874)から工部省となり、省内に設けられた教育機関や工学寮では、雇用した外国人技師を教師として工学教育が開始されている。工部寮は明治10年(1877)に工部大学校と改称し、新進気鋭の英人建築家コンドル(Josiah Conder)を主任教師に迎え、本格的な教育が開始される。こうした外国人技術者から導入された近代建築技術は、官営工場や兵舎、学校等の建設から北海道開拓使設置に伴う諸建設にまで表され、石造や木造、木骨煉瓦造の洋風建築が各地に出現した。一方、民の系譜からの技術受容は、安政6年(1859)頃から築造された横浜や函館、長崎、神戸等の外国人居留地が舞台となった。居留地は治外法権の外国であったが、外国人と邦人工匠との接触は幕府の認めるところであり、居留地は工匠たちにとって絶好の学習の場となったのである。民間の頭梁たちが建てた西洋風建築は、日本古来の伝統技術をベースに建物の姿や形を西洋風に自由に表現したもので、「擬洋風建築」と呼ばれた。擬洋風建築は、明治10?20年(1877?1887)頃にピークとなるが、明治32年(1899)の居留地の廃止と本格的な建築教育が普及するに従い、姿を消すことになる。こうした西洋建築の建設に伴い、油性塗料の使用が始まる。文久3年(1863)に長崎の居留地造成が完成すると、居留地を外国人に借地させている。現存するグラバー邸、オルト邸、リンガー邸、大浦天主堂はその後改築、改修されているが、創建時に油性塗料が塗られたことが確認されている。長崎では、出島のオランダ屋敷との関係からか、開国後いち早く油性塗料に接する機会があり、漆工や丹塗り、渋塗りの経験者が転進して塗装に従事していたと思われる。また、明治6年(1873)に外務局が発行した木製鑑札の裏面に「油塗職」との記載がある。このことから、当時既に油性塗料を塗装する専門職が存在していたことがわかる。一方、江戸に隣接している横浜居留地は大変な賑わいであったようである。当初、西洋建築は外国人技術者によって施工され、また指導された。官営建築や外国人住居、商館、学校、教