近代建築に使用されている油性塗料

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近代建築に使用されている油性塗料

近代建築に使用された油性塗料の変遷  41れ、金銀の透かし彫り金具がかぶせてあるため、光の角度によって鋭い輝きを見せている。仏画には朱、緑、黄による漆絵が施されているが、蜜みつ陀だ 僧そう絵え (蜜みつ陀だ絵え)で描かれているとの説もあり、論議を呼んでいる。「蜜陀僧絵」とは蜜陀僧(一酸化鉛PbO)を加えた乾性油に色粉(顔料)を練ったもので描いた油あぶら絵え をいう。漆芸には油ゆ 色しょくと呼ばれ、彩絵などの上に透明な漆をかける技法もあり、漆か油かの議論が尽きないようである。奈良時代にはボイル油の製法を記した文献『武ぶ 稜りょう随筆』、江戸時代には貝かい原ばら益えき軒けんがボイル油の処方を記した文献『万ばん宝ぽう鄙ひ事じ記き』が存在したといわれていることから、植物性油を用いた職人独自の塗装が行われていたとも想像されるが、確証はない。天文12年(1543)、ポルトガル人を乗せた船が種子島に漂着した。6年後の天文18年(1549)にはイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)が来日する。当時、西洋は大航海時代であり、ポルトガルをはじめスペイン、オランダ、イギリス等の諸国が交易を求め、極東日本へ進出し、我が国にとっては最初の西洋文化との出会いとなった。来日した多くの宣教師が、布教活動や日本の様子を本国へ報告したおびただしい数の書簡が遺されている。ルイス・フロイス(Luis Frois)は当時の様子を記した『日本史』を編纂している。これらの緒論の一部をもとにして書かれた『安土往還記』(辻邦生)に興味深い油性塗装の記述がある。天正4年(1576)の京都の被昇天の聖母教会(南蛮寺)建設の際には、「シモの島(九州)から届いたポルトガル製塗料が軒飾りや軒蛇腹に塗られた」という記録が残っている。4年後に安土に建てられた宣教師館(セミナリオ)では、「外壁は総板張りの上、志岐に漂着したポルトガル船から運ばれた灰色の塗料で仕上られ、窓枠はヴェネツィア風に白く縁取られ、鎧戸、扉は緑であった」とある。また、長崎と並び交易港として栄えた平戸は、元和2年(1616)にオランダとの交易が始まり、交易品の中に塗料の表記があったといわれている。さらに、平戸に建設されたオランダ商館(寛永17年(1640)に取り壊されている)が近年、鎧戸等を緑色に塗装して復元された。以上の記述や復元工事等から、15世紀には油性塗料塗りが行われていたとする油性塗料の起源説もあるが、当時の建物が現存していないうえに、確たる記録や資料、文献で検証されてはいない。また、鎖国中の江戸時代には交易の拠点であった長崎出島でのオランダ人の生活の中に油性塗料が使用されたと伝え聞くが、日本人の工人が職業として塗装に関与したわけではない。嘉永6年(1853)の黒船来航が契機となり、我が国が260年にわたる鎖国から開国へと地上に激動が興る中、地下にも激震が走った。1853年から1854年の僅か2年間に嘉永小田原地震、安政東海地震、安政南海地震、安政江戸地震等、地下の大激動に襲われた。こうした天地大動乱の中から、1868年には明治時代となり、新たな国家が誕生した。明治新政府は富国強兵及び殖産興業政策のもと、西洋化と近代化に邁進し、まず軍事力を強化するため、外国人技術者を招聘し、軍事技術や建築技術の指導を仰ぎ導入に努めた。安政3年(1856)に創設された「蕃ばん書しょ調しらべ書しょ」には多くの建築技術書が導入されており、幕府の命で各地の海岸に築かれた砲台は、これらの技術書に基づいて設計されたとされる。一方、実地の近代建築技術の導入は、外国人技術者の指導による軍事工場建設から始まった。文久元年(1861)にはオランダの援助のもと、長崎で製鉄所建設が始まり、慶応元年(1865)には横須賀にもフランス人技術者の指導による横須賀